仏教・キリスト教・イスラム教における死生観の違い

宗教を学ぶ2

有史以来、究極の命題は「人は死後どうなるのか?」です。
宗教はこの究極の命題に各々解釈を持っています。

死後の世界についてを世界三大宗教はどう定義しているのでしょうか。
仏教、キリスト教、イスラム教は人が死んだらどこへ行くのかをそれぞれ定義しています。

今回は宗教が持つ死生観をまとめ、死後世界の概要を掴みます。
仏教、キリスト教、イスラム教とそれぞれまとめていきます。

仏教の死生観

輪廻転生

輪廻転生:ひとつの命が終わっても、その魂は或る一定の後に次の様相へ生まれ変わり、それが果てしなく続く

輪廻は生まれ変わりの思想です。
仏教の古典文学を読むとよく「○○に生まれ変わった」という話が度々、登場します。

仏教では人は死ぬと新たな生へ生まれ変わるという輪廻転生の思想が根強く支持されています。
現代のチベット仏教では「ダライラマが死ぬとその生まれ変わりを探す」という習わしがあります。

輪廻転生が仏教とキリスト教を隔てる大きな死生観の違いです。

因果応報

輪廻転生の中心には因果応報という考えがあります。
因果応報は「よい行いをすると幸せに生まれ変わり、悪い行いをすると蝶や虫など人間以外に生まれ変わる」というものです。

仏教の世界では、たとえ天界に生まれ変わりを果たしても死は免れません。
因果応報による生まれ変わりの苦しみも続きます。

輪廻転生と因果応報は交差して、それを苦しみと取ることも出来ます。
来世でよりよい物体となるために、今の世にて善行を積むというのが仏教の基本です。

悟りを得る

仏教では悟りを得ると、生死の意味が重大ではなくなります。

お釈迦様の弟子の1人は悟りを得た後に、涅槃に至る(自らの命を絶つ)ことを願い出ます。
お釈迦様は弟子の願いを許し得たという言い伝えもあります。

「悟り>生死」という死生観があります。

仏教の教義は「絶対の存在」は仏法を除いて有り得ません。
人智を超越したいわゆる「神」的な存在・超越的な存在すらも変転する世界様相の一部分です。

悟りこそが仏教の死生観に最大の答えです。

キリスト教の死生観

最後の審判

キリスト教では死ぬと天国へ行きます。
そこで新たな生を受けて、天国で生きることになります。

総決算とされる「最後の審判」の時に全てが裁かれ死者が蘇ります。
その時まで死者は天国で待ちます。

このことからキリスト教では死について「召天」といいます。

天に昇るのではなく、天に召されるのです。
神様に呼ばれて、神の国に生きることがキリスト教の死生観です。

キリスト教では死は終わりではない

キリスト教では死は終わりを意味しません。
復活の時まで天国で待機します。

「死」は(肉体の生が終われば)神様の元へ帰ることを意味します。
元来、この世へは神様から遣わされた身なのです。
その使命が終われば神様の元に帰るのは自然のことです。

カトリックの死生観

キリスト教ではプロテスタントとカトリックで死生観が異なります。
キリスト教の代表的宗派のカトリックの死生観をまとめます。

カトリックの死生観には天国、煉獄、地獄があります。

天国

天国は聖人たちと共に愛と平和の源の場です。
天国では神の正義を全身で味わうことが出来るとされています。

現世で神の似姿のように生きた人間のみが入ることが出来ます。

煉獄

煉獄とは天国に入ることが出来ないものが入ります。
天然水の中に汚れた生活排水を混ぜることは出来ません。

神の源に帰るためには神の似姿にならないといけません。

煉獄内では現世で犯した罪を清めることが主な目的です。
煉獄で神の下へ行く準備をし、魂の苦痛を犠牲として捧げます。

「死者の祈り」ではこの期間が短くなるように祈ります。

地獄

地獄は神を拒絶した状態の者が入る場です。
現世において完全に神から背を向けたものが地獄に落ちます。

ただし、無神論や異教徒が地獄に行くというわけではありません。
→あくまで平等な差配がされる

神の実践つまり愛、希望を失ったものが陥る霊的空間が地獄です。

イスラム教の死生観

審判の日

イスラム教の死は今ある世界における生涯の終着点です。
死は人生の終着点ではなく、愛する者との一時の別れを意味します。

審判の日に再び蘇り、神が許すと来世で家族と再会することが出来ます。
イスラム教では、来世の存在が信じられているのです。

審判の日まで

審判の日に蘇るまでの期間は生前の信仰、生き方によります。

善良に慈悲深く生きた人は墓を広げて快適に暮らせます。
信仰をせず人としての道を外した行いをする者は墓を狭められ苦痛を味わいます。

死ぬ時に天使に質問をされます。
その後は復活をするその日まで眠りにつくといわれています。

しかし、預言者、殉職者、聖者については、墓に入っても尋問を受けず、直接楽園へ行き、そこで生きるれています。

過度な悲しみを表してはいけない

ムスリムは死に際して、アッラー(唯一神)に過剰な悲しみを見せてはいけません。。

イスラム教の聖典コーラン16章「各人の死ぬ時間はあらかじめ正確に定められている」と説かれています。
人は生まれた時から死ぬ時までが定められてます。

過度に悲しみを表すことは、アッラーの意志に反するものです。
ムスリムは死の知らせに「本当に私たちはアッラーのもの。かれの御許しに私たちは帰ります」という意味のクルアーンを唱えます。

 

宗教と死

死生観を作る

宗教は人の「死」について意味をもたらしています。

そもそも、死後の世界は各々の宗教が作り出したものです。
その意味は現世での苦労を和らげるために存在したり、来世への審判のために存在するなど存在意義は多岐に渡ります。

学的には死には意味がなく、単に固体としての終わりを迎えただけです。
そこに意味づけをした時から宗教は始まるのかもしれません。

日本における死

日本人は信仰心の薄い国家です。
無神論という話ではなく、信仰に対する関心がありません。

信仰心は薄くても、死に関して何らかの儀礼的措置は取ります。
ただ、そこに能動的な宗教との関わりは見ることが出来ません。

多くの日本人にとって、「死」は何の意味ももたない空虚なものです。

宗教的関心の薄さからくる空虚は蔑むものでも誇るものでもありません。
「日本人も何かの宗教を熱心に信仰し、宗教と密接に関わればいい」という話ではありません。

國學院大学神道文化学部教授で宗教学者の石井研士氏は「宗教はどの国でも精神文化の中核に位置し、それに敬意を払わない社会は怖く、薄ら寒い気がするという考えが適切である」と論じています。

だとすると日本に精神文化の中核に位置する宗教は「死」に対する空虚であり、その空虚に敬意を払うことが然りなのかもしれません。

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