暴れん坊のドケチ将軍「徳川吉宗」

徳川将軍職に就任した15人の将軍をまとめます!
どの将軍も魅力的な人物です。

今回は8代目将軍「徳川吉宗」です。

8代目将軍、徳川吉宗は「江戸時代中興の祖」といわれる名君です。

基本はトップダウンで指揮系統を整えました。
そこへ目安箱などのボトムアップも行いバランスを整えました。

吉宗の政治スタイルは革新的ともいえます。
とはいえ、吉宗が行った引き締めをのツケは、後の時代で払うことになります。
それでも、こういう歴史に名を残す人は、超豪運も兼ね備えています。
(吉宗の策略があったと疑えます。)

トップが率先して、計画を断行しました。
江戸時代という超巨大組織のリーダーとして、目をみはるものがあります。

徳川吉宗の結論を端的に


©徳川記念財団

●江戸時代中興の祖
→改革で財政を建て直す
→名君の一人として評価

●享保の改革を実施
→質素倹約を掲げる
→学問の緩和
→目安箱、小石川養生と革新的政策

●暴れん坊将軍
→武芸を復活、鷹狩りにハマる
→御庭番衆創設

●女性関係
→若い時はハッスルしまくる
→大人になると女性関係も質素倹約

徳川吉宗、将軍までの道

江戸幕府中興の祖、徳川吉宗

8代目将軍、徳川吉宗は暴れん坊将軍として、知名度抜群です。
教科書でも登場回数が多く、福耳には憧れます。

吉宗は享保の改革という大改革をしました。
評価は「江戸幕府の中興の祖」と呼ばれ評価されています。

吉宗は、豪運と質素倹約のドケチ親父です。

豪運で紀州徳川家の跡取りへ

徳川吉宗は、徳川家御三家の紀州藩出身です。
紀州徳川家の2代目藩主、徳川光貞の4男として生まれます。

4男ですので、紀州徳川家の家督継承とは縁遠いです。
しかし、吉宗の兄弟が相次いで亡くなります。

繰り上げ、繰り上げで吉宗が家督を継ぐことになります。
終いには、父親も亡くなり、吉宗はあれよあれよと藩主へと就任します。

吉宗メモ
豪運で藩主へ

紀州藩で善政を敷く吉宗

棚ぼたで藩主に就任した吉宗。
彼は、卓越した政治の才能を発揮していきます。

吉宗のモットーは「質素倹約」です。
借金まみれの紀州藩の財政を建て直します。

紀州藩は幕府からの借金や災害で財政はひっ迫しています。
この借金を吉宗は見事に解消し、財政を改善します。

噂が広まる

吉宗は自ら、木綿の服を着て、率先して質素倹約に努めます。
トップが倹約を実践するのは、素晴らしい姿勢です。

また、後の「目安箱」の前身である「訴訟箱」を藩内に設置されます。
訴訟箱によって、庶民生活の改善を図ります。

吉宗の善政は、江戸にまで評判が及びます。

「なんやら紀州藩にて、政治の上手い奴がいるようだぞ」
という形で、吉宗の名前が江戸にも広がります。

将軍候補の相次ぐ死

時を同じくして、7代目将軍の徳川家継が夭折します。
江戸では「将軍継嗣問題」が勃発します。

家継が早逝して、徳川秀忠からの直系血筋は途絶えます
直系血筋が途絶えた場合は、徳川御三家から将軍を決定するルールです。

御三家の中では、尾張徳川家は格が高く、次期将軍候補筆頭です。

しかし、またも吉宗の謎の豪運が発揮されます。
将軍候補最右翼の徳川吉通(尾張)やその息子たちが相次いで亡くなります。

豪運で将軍に上り詰める

辛うじて、尾張徳川藩主の徳川継友が生き残ります。
継友は、天皇家とパイプがあり、次期将軍として有望視されます。

継友は、政権を握っていた白石や間部が推挙します。
しかし、白石や間部は、幕臣と溝がありました。

大奥を仕切っていた天英院は、紀州藩主の吉宗を擁立しします。

継友vs吉宗
次期将軍を巡った派閥争いは、熾烈を極めます

結果は、巧みな票固めをした吉宗が将軍に就任します。
吉宗は競合相手の相次いぐ死や政局の溝を巧みに操りました。

この辺りが、徳川吉宗の豪運さと隙のなさが伺えます。

 享保の改革

幕府財政の立て直し

吉宗は将軍に就任すると、白石や間部を罷免します。
幕政のねじれを解消し、吉宗への権力集中を促します。

そして、紀州藩主時に培った「質素倹約」のノウハウを発揮します。
この質素倹約が功を奏して、幕府の財政を回復させます。

新田の開発や年貢の徴収を見直し、幕府の収入は安定します。

庶民からは不満

一方で、吉宗は庶民からは嫌われていました。
「質素倹約」と謳い、税金を徴収され、庶民の不満は蓄積します。

庶民は年貢をむしり取る吉宗を揶揄して「米将軍」と呼びます。
質素倹約の想いは庶民には伝わりません。

それでも吉宗は「俺がやらねば誰がやるんじゃい」と息巻き、幕政を建て直します。

医療制度や学問の充実

吉宗は藩主時代の経験を活かし、「目安箱」を設置します。
直接将軍に提言できる目安箱の設置は、部分的に効果を発揮します。

目安箱の設置は、医療や学問の分野で大きく広がりを見せます。

医療制度では、小石川養生所が誕生します。
この施設は、貧困層が無料で診療を受けることのできる施設です。

また、学問ではそれまで禁じられていた洋書の輸入を緩和します。
これまで、儒学一辺倒であった学術分野に蘭学の広がりをもたらします。

徹底的な改革

吉宗は登用でも改革をもたらします。
身分が低くても才能のある人間を登用しました。

大岡裁きで知られる大岡忠相を吉宗によって登用されます。
さらには、司法制度の改革を推進します。

大奥の改革

幕府財政をひっ迫していた大奥という利権の塊にもメスをいれます。

大奥の改革では、大胆な人員削減を行いました。
そのリストラ基準は「顔が美人なら大奥追放」でした。

これは、吉宗がブス専ということではありません。
「美人なら貰い手があるだろう」という理に叶った判断でした。

暴れん坊将軍、吉宗

武芸の復活

「質素倹約」の米将軍である吉宗は「暴れん坊将軍」として知られています。
吉宗が暴れん坊将軍と呼ばれる所以は、武芸を復活させたことにあります。

吉宗は、自身も武芸を好みました。
5代目将軍、徳川綱吉が禁じた鷹狩りを復活させ、積極的に武芸を奨励します。

御庭番の創設

吉宗は、御庭番と呼ばれる治安維持組織を創設します。
御庭番はるろ剣にも出てくる武芸集団です。

こうう組織を創設する背景には、文治政治へのアンチテーゼがありました。

武芸を究めることこそが武士の本分である」と吉宗は江戸幕府の権威を高めようとしました。

 徳川吉宗のハッスル事情

若い頃はお盛んな暴れん坊将軍

吉宗の女性事情は、中々充実しています。
吉宗は「名門のお坊ちゃま」という圧倒的な肩書をフル活用。

欲望に身を任せ、女子と関係を持ちまくります。
その関係相手も女中から町娘、農家の娘と見境がありません。

気に入れば、片っ端から関係を持ちます。
暴れん坊将軍の名も伊達ではありませんね。

大人になったら女性関係も質素倹約

吉宗は7人の妻を娶り、5人の子供を設けます。

吉宗は「後継者不足」を憂いていました。
基本の子作りスタンスは「後継者の確保」です。

晩年の吉宗は女遊びも飽きて、大奥の縮小に乗り出します。
費用がかさむ大奥の縮小を狙いました。

大人になってからは、女性関係も質素倹約に走ります。
徹底した倹約の鬼です。

吉宗の晩年

吉宗は晩年になると息子の家重に家督を譲ります。
しかし、家重は重度の持病を抱えており幕政に参画しません。

そのため、吉宗は自身が倒れるまで政治の前線で指揮を執りました。
吉宗には家重以外にも息子がいましたが跡目争いを防ぐために、敢えて家重を将軍に就任させました。

自身は最期まで政治に関わりながらも脳卒中で死去します。

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