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人情味溢れる将軍「徳川家綱」

徳川将軍職に就任した15人の将軍をまとめます!
どの将軍も魅力的な人物です。

今回は4代目将軍「徳川家綱」です。

家綱は先代までの家光らに比べるとインパクトに欠けます。
後世には「性格のいい将軍である」という逸話が数多く残っています。

家綱は江戸時代の転換点を治めた将軍です。
武力から政治へシフトしていく時代を作りました。

徳川吉宗の結論を端的に


©伝狩野安信画

●生まれながらの将軍
→3代目家光の長男
→以降、江戸幕府は世襲制

●武断政治の弊害
→アンチ徳川勢力に命を狙われる
→文治政治へシフトする

●いい奴エピソードが多い
→徳川幕府のプロパガンダ?

時代の転換点を生きた徳川家綱

家綱の治世

待望の跡継ぎ

徳川家綱の父であった徳川家光は熱心な男色家でした。
家光が男色に明け暮れたので跡継ぎに恵まれません。

家光の乳母の春日局や幕閣は頭を抱えます。
「このままでは跡継ぎが誕生しない」と悩んだ春日局は家光に子作りを強要します。

大奥を作るなど必死に策を練り、なんとか跡継ぎを誕生させました。
苦労の末、誕生したのが家綱です。

徳川の世襲制

家光には、家綱以外にも子供が誕生しました。
しかし、跡目争いを避けるために、長男の家綱を早々に次期将軍に決めます。

家光は自身が兄弟と跡目争いをした苦い経験を活かしました。

そして、1651年に父の家光が亡くなると、家綱は将軍に就任します。
家綱が将軍に就任したのは若干11歳でした。

幼年の将軍が誕生は「徳川将軍家は世襲制だ」と世に知らしめました。

武断政治の弊害

武断政治へのアンチ

幼年で、将軍職に就任した家綱はまだ子供でした。
幕政は家綱の代わりに家臣が務めます。

叔父の保科正之や酒井忠勝らの名臣が幕政を盛り立てます。

しかし、この年代には徳川家を敵視する勢力が現れます。
原因は家康から家光が推し進めた武断政治でした。

武断政治の実害

武断政治とは武力で権力を集中させるものです。
徳川将軍家の権威を武力で担保します。

武力で権力を集め、敵対勢力は徹底的に武力で弾圧します。

武断政治の推進は強硬的な姿勢で行われます。
背後に武力をちらつかせるため、良く思わない勢力も登場します。

しかし、家康から家光までの将軍は圧倒的な統治力を有しました。
そのため、敵対勢力も抵抗する術がなく渋々と幕府の言いなりになります。

命を狙われる家綱

幕府転覆計画

アンチ徳川勢力は幕府転覆を企みます。
「くそー、家光さえいなければ…」と歯ぎしりしていました。

その中、アンチ徳川勢力へ吉報が入りました。

「カリスマ将軍家光の死亡の報せ」です。
更には、将軍職を継ぐのは11歳の子供というおまけ付きです。

この報せにはアンチ徳川勢力の人たちが大喜び。
遂に、徳川幕府転覆の機運が高まります。

慶安の変

アンチ徳川は早速「幕府転覆計画」を企てます。
この計画は「慶安の変」と呼ばれています。

結果は慶安の変は未然に密告されました。
家綱や徳川幕府に被害が及ぶことはありませんでした。

アンチ徳川勢力が一致団結しておらず、テロは未遂で終わります。

テロは未遂でしたが、慶安の変は大事になりました。
将軍家を狙うとは何事か」と世の中は大ニュースです。

徳川家の武断政治を改める事件になりました。

武断政治から文治政治へ

文治政治へ

家綱の最大の功績は、武断政治から文治政治へと切り替えたことです。
文治政治とは、儒教的徳治(社会性や道徳性)に立った政治です。

武断政治では、アンチ徳川勢力が増えてしまいます。
乱世が過ぎ去った世の中では、武力での統治は不要。

そこで、各藩の武家に対してのルールを緩和。
戦国の世の無駄な慣習をなくします。

結果、戦国の名残は消滅し次の世へと移ります。

時代へフィット

家光の治世下までは乱世の名残がありました。
これまでは徳川家が統一したとはいえ、いつ乱世へ逆戻りしてもおかしくありませんでした。

反対勢力の監視、排除が必要だったので、ある程度の引き締めを課しました。
武断政治の成功で徳川幕府への組織的な攻撃を防ぐことが出来ました。

家綱の時代は、既に争いのない平和な世の中へ移行していました。
徳川家の世も安泰な制度が取られています。

そこで文治政治へと切り替えます。
「時代に合わせてルールを緩和し、平和な世の中へフィットしよう」ということです

ここら辺のバランス感覚の良さは流石です。
江戸時代を260年も続けた秘訣なのでしょう。

家綱最大の功績
武断政治→文治政治

 徳川家綱のいい奴エピソード集

徳川幕府のプロパガンダ?

家綱の治世下では、文治政治へと切り替わりました。
時代の転換期として、将軍家綱のいい奴エピソードが続出します。

「家綱はいい奴」という世論形成に幕府側が必死なのが伝わります。
ここでは、徳川家綱のいい奴エピソードを紹介していきます。

小さい頃からいい奴だった、流罪の話編

幼いころの家綱は、島流しの刑になった罪人の話を聞きます。
家綱は、「罪人たちは島に流されて何を食べているのか?」と傍人に聞く。

傍人が、家綱のその問いに応えられませんでした。
その対応を見て、家綱は傍人を怒ります。

「罪人を島に流して、彼らの生活を把握していないのか怒」と家綱は罪人の生活を気に掛けました。

それを聞いた父の家光は「なんて出来た子供なのだ」と感心します。

罪人にまで、人権を与える家綱。
地味な存在ですが、めちゃくちゃ人情味のある御仁です。

小さい頃からいい奴だった、望遠鏡の話編

ある日、城中を歩く家綱のもとへ、家臣がやって来ます。
家臣は「若様、この望遠鏡にて、城下をご覧ください」と望遠鏡を家綱へ手渡します。

家綱は「所望せん」と望遠鏡を受け取りません。

家臣は「いかが不具合ありましょうか?」と尋ねます。

「我が城中から民を見下せば、民も気が悪かろう」と家綱は言いのけます。
将軍に見られたら、民がいい気はしないであろうということです。

この第三者目線からの聖人気質です。
恐ろしいほどいい奴です家綱さん。

明暦の大火の復興に尽力

家綱の治世下で、江戸の三大大火と言われる「明暦の大火」が起きます。
江戸の半分は焼け落ち、死者は10万人にも及ぶという大火事でした。

家綱は、復興の陣頭指揮を執りに尽力します。
大火で焼け落ちた江戸の武家屋敷や神社仏閣などに資金援助もします。

また、火事から民を守るために、両国橋という橋を建設します。
火事の際に対岸へ逃げれるようにしました。

この火事で、防火のための建築規制を施行します。
更に、用水路などを普及させ、火事の防止策にも乗り出します。

このような対応も家綱の器の大きさを図ることができます。

子供ができなかった家綱

子供が出来ない

家綱は正室、側室合わせて3人の妻を娶ります。
しかし、子宝には恵まれませんでした。

大奥や家臣団は、家綱に必至で子作りをさせます。
しかし、成果は出ませんでした。

徳川将軍家で子供が出来なかったのは、家綱を含めて全部で4人います。
奥方を作り放題の身分にしては、意外に子供が出来ないものなのです。

「徳川家は世襲制だぞ」とイメージをつけた先から機能しませんでした。
なんとも皮肉なものです。

 

若すぎる家綱の死

人情味溢れた家綱は、脳の疾患により逝去します。
38歳の若さでこの世を去ります。

家綱は幼い時から病弱だったと言われていました。
病弱で優しい家綱を見ているとなんだか嫌いになることが出来ませんね。

将軍の良い話を流布させるためなのか、家綱にはいい逸話がたくさんあります
もし、それが真実なら人情味溢れる、良い将軍です

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