生真面目で隠れ有能 「徳川秀忠」

徳川将軍職に就任した15人の将軍をまとめます!
どの将軍も魅力的な人物です。

今回は2代目将軍「徳川秀忠」です。
秀忠は家康、家光に比べると世間知名度がぐっと下がります。

偉大な家康、カリスマ家光の間を務めた地味な将軍です。
しかし、地味ながら有能な将軍という評価も得ています。

結論を端的に


©松平西福寺

●地味で優秀な徳川秀忠
→影の薄い凡庸な将軍
→政治運営や幕府の基盤を作った将

●生真面目な秀忠
→第二次上田合戦での失態
→大坂の陣

生真面目で有能な「徳川秀忠」

実は有能な将軍だった

徳川秀忠は「影の薄い凡庸な将軍」という評価が多いです。
しかし、秀忠は隠れた実力者です。

初代家康と3代目家光に挟まれたため、印象が薄いですが、徳川幕府の基盤を作ったのは秀忠ともいえます。
秀忠は徳川幕府を260年持続させた影の立役者。

秀忠は幕府の政治基盤を作った将軍です。
徳川将軍の中でも優秀な部類に属し、動乱の時代に徳川体制を固めた名将です。

軍事面では凡庸

確かに秀忠は軍事面では凡庸な将軍でしょう。
徳川家の趨勢を決める大戦では、失敗を繰り返しています。

父である家康からは将軍になっても叱責を受けています。

秀忠苦難を経て家督を継ぐ

家康の死後、江戸幕府の看板を背負ったのは家康の三男徳川秀忠(1579-1632)です。

家康の長男は早くに切腹し、死亡。
次男は豊臣秀吉の養子に入っていました。

長男と次男に継承が出来ずに三男の秀忠に将軍職のポストが回ります。

家臣からの反対

家康の家臣団の中では家康の跡継ぎに関する議論が持ちきりでした。
幕府を築いた名君である家康の後釜を務めるのは大役です。

継承権を持っていた秀忠は家督を継ぐまで大きな手柄を立てられずにいました。
このことから家臣団の中には、秀忠の手腕に疑問を抱く者も大勢いました。

幕閣には別の跡継ぎを推す声も高まります。

「秀吉の養子である次男の結城秀康を徳川家へ戻す案」や「四男の松平忠吉を推す案」などそれぞれに派閥が出来ました。
幕府内では跡目争いが水面下で繰り広げられました。

家康の鶴の一声

秀忠はアンチ勢力の存在に頭を抱えます。
跡目争いでは武勇に勝る兄弟に後れを取っていました。

秀忠の将軍就任は難航しますが、結論は家康が下します。
次第に熱くなっていく家督争いをみた家康は独断で秀忠の将軍就任を決定します。

家康の「これからの時代は武勇より政治だ」という鶴の一声で政治力に期待された秀忠に跡目が決まります。

家康は自身の死後に政局が混乱を抱くのを危惧していました。
そのため、家督を早々に秀忠に譲り、自身は大御所として政治に介入。
→大御所政治

秀忠は家康の存命中に征夷大将軍に就任し、2代目徳川将軍に就任します。
家康の鶴の一声は結果的に成功して、江戸幕府の確立に寄与しました。

家康を怒らせた秀忠

第二次上田合戦での失態

秀忠は武勇には優れていませんでした。
そのため、合戦の場では家康に幾たびも激怒されます。

1600年、天下分け目の「関ケ原の合戦」が勃発。
関ヶ原の合戦が秀忠の初陣でした。

秀忠は記念すべき初陣で後世にまで伝わる派手な失敗を残します。
この失敗で家康からも叱られ、家臣団には跡目としての懸念を残しました。

真田攻略の命

秀忠は、関ケ原の合戦において、真田家攻略を指示されます。
「西軍、石田側についた真田家を攻略しろ」と家康から命を受けます。

家康は将来の将軍候補の初陣を失敗させるわけにはいきません。
そのため、家康は秀忠に大軍を預けます。

その大軍を率いて、小城である真田家を攻めさせます。

秀忠に勝たせてやりたい」という家康の親心です。

秀忠軍と真田軍の兵力差は10倍以上ありました。
形勢は圧倒的に秀忠軍有利です。

家康の息子への想いが兵力差が物語っています。

まさかの敗北

圧倒的な兵力差においても秀忠は上田城を攻め落とせません。

生真面目な秀忠は上田城へ真正面から攻城戦を仕掛けます。
「兵力差がある時は真正面から突撃と決まっている」と言い放ちます。

しかし、基本戦術では真田家を討てるはずもありません。

「天下に真田あり」と言われた真田昌幸の術中にまんまと嵌まります。
結果、秀忠軍は大打撃を受けます。

秀忠の側近は策の変更を申し出ます。
「殿、我が方劣勢です。策を練り直しましょうぞ」

秀忠は家臣の提言にも耳を貸しません。
「数では圧倒的なんだ。そのまま押しきれ」の一点張りです。

真田軍は戦国でも随一の力を持ちます。
真田相手に、数の優位だけで突っ込むのは無謀でした。

生真面目な秀忠は「兵力が有利な時は押し切る」という教えを律儀に守ったのです。
真っ向から攻城戦に挑み、大敗を喫しました。

家康激おこ

秀忠軍は上田城の戦いにおいて、真田家の巧みな攻略に嵌まり大敗。
家康が預けた秀忠の大軍は、真田城に釘付け。

秀忠は、上田城を落とせずにノコノコと撤退します。

結果的に、秀忠が関ケ原へ参戦する頃には関ケ原の合戦は終戦していました。
この秀忠の愚鈍さに家康がブチギレ

「あれだけの大軍で、小城の1つ落とせないなんて…」と家康は言葉にならない怒りをぶつけたことでしょう。

秀忠はめそめそとします。
しかし、生真面目な秀忠君はこれを深く教訓にするのでした。

大坂の陣での失態

1615年、ついに徳川家は豊臣家を滅ぼす戦を始めます。
戦国時代に終焉を告げる一戦です。

この頃には、ばりばりの将軍として活躍していた秀忠。

ただ、秀忠は戦で武功を上げたことがありません。
「年老いた父にいい格好を見せたい」と秀忠は息巻いて、大坂の陣へ臨みます。

屈辱を味わった関ヶ原へのリベンジマッチです。
相手側には真田幸村も存在し、舞台は整いました。

将軍らしく堂々としろ

大坂の陣でも秀忠は家康から命令を下されます。
今回の命は「将軍らしく堂々と参陣しろ」というものでした。

この命を受けた生真面目な秀忠は、関ヶ原での教訓を思い出します。
関ケ原では、遅刻して怒られた。今度は、全速力で戦場へ向かうぞ!」と秀忠は心に決めます。

江戸から大阪へ向かう道中、秀忠は大軍を全速力で行軍させます。
結果的に、大阪への到着は予定より随分早くに到着しました。

これには、前回の教訓を活かせたご満悦の秀忠。

またも家康に怒られる

全速力で大軍を行軍させたため、兵士は疲弊していました。
兵士は行軍で手一杯となり、消耗して戦争をできる状態ではありませんでした。

家康は使い物にならない大軍を目にして、またもブチギレ。

「お前は、程度を知らんのか」と秀忠を怒鳴りつけます。

「遅くてもダメ、早くてもダメ」秀忠はいい塩梅が分かりません。
天下の徳川将軍も偉大なる父親の前では、こっぴどく怒られます。

なんとも、生真面目な秀忠が憎めませんね。

 実は優秀だった徳川秀忠

政治能力は高い

家康の陰に隠れていましたが、秀忠の政治能力は非常に有能です。

外様大名(関ケ原前後に徳川に与した勢力)への引き締めを強化します。
外様の力を制限したことで幕府の安泰を築きます。

外様大名への制限は家康も手をつけられなかった事業でした。

更には、鎖国の礎を築きます。
外国船寄港を平戸・長崎に限定、キリスト教の禁教令を発します。

秀忠の働きには、家康さんもニッコリしながらこの世を去ります。
秀忠の生真面目さは、平時の時には、とても良い方向へ転びます。

結果的に徳川家の基盤を築いたのも秀忠でした。

秀忠は政治有能
鎖国推進者&外様大名の引き締め

秀忠の妻は恐妻家であった

2代目の秀忠を支えていた正室の小姫は、超恐妻家でした。
小姫は、魔王織田信長の血を引く姫です。

その気性の荒さは、秀忠を尻に敷いていました。
恐るべし信長の血です。

小姫の存在が、秀忠を裏で支えてたと言われています。
秀忠は怒られて伸びる、マゾ気質があったのかもしれませんね。

秀忠も順調に子作りを進めて跡取りは問題は、事なきを得ます。

冷静沈着な男

秀忠の逸話に牛の話があります。
たぶん、これは幕府のプロパガンダだと思います。

ある日、秀忠は熱心に儒学の勉強に励んでおりました。

すると、何処からともなく、牛がその場所へ乱入してきました。
周りの家臣たちはが牛に取り乱します。

そんな中、秀忠は冷静沈着で対応します。
「まあまあ牛ぐらいでそう焦りなさんな」と家臣と牛を宥めたされています。

「牛が乱入してくる環境で勉強してんのかい」とツッコミたくなります。
とはいえ、この手の逸話は「秀忠=冷静沈着でスマートな人」という幕府のイメージ戦略が伺えます。

秀忠の死

秀忠は、1631年に秀忠は病に伏して死んでしまいます。
享年、54才でした。

秀忠の死因もお父ちゃんの家康と同じく「胃がん」であったそうです。
家康は75才まで生きたので、秀忠はそれに比べると若くして亡くなったのですね。

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