江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」

徳川将軍職に就任した15人の将軍をまとめます!
どの将軍も魅力的な人物です。

今回は15代目将軍「徳川慶喜」です。

慶喜は江戸幕府のラストエンペラーです。
人生前半は幕末と維新の動乱に巻き込まれました。

江戸幕府滅亡後は悠々自適なスローライフを送りました。
直接的に江戸幕府を滅ぼした大戦犯ですが現在の評価は分かれるところがあります。

徳川慶喜を解説する!

15代将軍、徳川慶喜

徳川慶喜は初代家康に次いで知名度の高い徳川将軍です。
江戸幕府のラストエンペラーです。

15代目将軍、徳川慶喜は君主として、評価が分かれています。

江戸幕府の滅亡理由は数多くあります。
ただ、結果として直接的に江戸幕府滅亡を招いたの慶喜です。

とはいえ、江戸城の無血開城などで幕府滅亡の損失を最小限に抑えました。
→動乱の世にて、犠牲者を最小限に抑えたと評価

現在では「敵前逃亡の悪評」と「聡明利発の好評」に分かれます。

幕府が崩壊後は、新政府より加護を与えられます。
老後は悠々自適なスローライフを送りました。

それでは、徳川慶喜の半生を振り返りましょう。

過激派の父親

15代目将軍、徳川慶喜は、徳川斉昭の七男として誕生します。
斉昭は徳川御三家の1つ水戸藩の藩主です。

そのため、幼少期から慶喜は英才教育を受けます。
幼い頃から頭角を現していた慶喜は次期幕府の要職を渇望されていました。

徳川斉昭

慶喜の父は斉昭はゴリゴリの攘夷論者です。
その頃、開国を迫っていた欧米諸国の打倒を目論んでいました。

斉昭は強硬的な政治態度で、幕府内では厄介者でした。
斉昭の悪評は水戸藩全体に飛び火します。

幼年期の徳川慶喜

名家の水戸藩主の息子として、慶喜は育ちました。
慶喜は幼年期より類まれない才知を発揮したと評されています。

慶喜の才知は幕府内でも話題になります。
名家の有能な人材として、慶喜は将来の将軍候補にまで担がれます。

慶喜は文武に優れており、特に手裏剣の腕は、達人の域でした。

慶喜は水戸藩に根付く尊皇思想に影響を受けていました。
尊皇思想は慶喜が将軍になってからも幕政の運営に深く影響を与えます。

尊皇思想
朝廷を重んじる思想

慶喜将軍就任

度重なる将軍継嗣問題

13代目?

慶喜は、文武ともに秀でており、将軍候補に担ぎ上げられます。
幕府内では若くして将来の将軍候補の筆頭として目されます。

12代将軍、徳川家慶は慶喜の能力を高く買っていました。
家慶、自ら慶喜に将軍職の打診をするほどの入れ込みようでした。

結果は家慶に、嫡子が誕生して慶喜の将軍就任は断念されます。

14代目?

家慶の嫡子である13代将軍、徳川家定は病弱でした。
そのため、将軍継嗣問題が幕府内で紛糾します。

当初は慶喜が将軍に就任する話が持ち上がります。
しかし、ここで一橋派と南紀派の抗争が勃発します

その結果、井伊直弼擁する南紀派の徳川家茂が将軍に決まります。

慶喜はこうして、度重なる将軍継嗣のチャンスを逃します。
慶喜は完全にへそを曲げてしまいます。

こんな面倒な世の中で、将軍になどなりたくないわ」と負け惜しみを言う始末でした。

ようやく将軍就任

南紀派の筆頭勢力であった井伊直弼が桜田門外の変で殺されます。
すると、幕府から追放されていた水戸藩の勢力が解放されます。

慶喜が政治の表舞台に戻りました。
慶喜は嬉々として、14代家茂をサポートする立場に回ります。

その後、将軍家茂は長州藩征伐の最中、20歳の若さで早逝。
後任として白羽の矢が立ったのが幕政に携わっていた慶喜です。

2度の将軍継嗣に失敗した慶喜は、ようやく将軍就任です。
念願の徳川家の将軍職のポストでした。

日本史最後の征夷大将軍・徳川慶喜

朝敵ダメ絶対

慶喜の評価は、ぱっくり二分されています。
臆病者」と「才知ある為政者」という評価です。
→まさにコペルニクス的転回

慶喜の一貫した姿は「朝敵になりたくない」です。
→慶喜朝敵ダメ絶対です

尊皇思想の植付け

慶喜は、幼少期から水戸藩の尊皇思想が植え付けられます。
もし、徳川家が朝敵になれば祖先代々に顔向け出来ない」という考えが根っこにあります。

慶喜からしたら、江戸幕府の存続、徳川家の権威はどうでもいいのです。
朝敵にさえならなければ問題ありません。

この尊王思想が幕末の混乱を生みます。

鳥羽伏見の戦い

慶喜と切り離せないのが「鳥羽伏見の戦い」です。
当時、幕府と薩長が「いざ決戦」と衝突します。

慶喜は家臣を集めて「薩長を叩きのめせ」と発破を飛ばします。
戦いが始まり、激戦の様相を呈します。

その最中、薩長側の策略で、戦場で錦の御旗を掲げます。
薩長は錦の御旗で自軍の士気を高めようとしました。

狼狽する慶喜

錦の御旗を見た慶喜は、それまでの強固的な姿勢を一変します。
いかん、このままでは朝敵になってしまう」と慶喜は狼狽します。

慶喜は奮戦する家臣を置き去りにし、敵前逃亡。
手勢だけを連れて、海路で江戸まで逃げ帰ります。

将軍のへっぺり腰に幕府軍は総崩れ、鳥羽伏見の戦いは幕府軍の惨敗です。
「こんな弱腰の将軍の下では、戦えない」と一致団結できず、薩長軍に大敗します

大政奉還&江戸城無血開城

臆病者なのか

慶喜は鳥羽伏見の戦いで家臣を置き去りにしました。
ですが、彼が臆病者であると決めつけるのはよろしくありません。

慶喜の基本的な考えは「朝敵にならない」ことです。
ただ、臆病で逃げただけとは思えません。

実際に薩長と戦うつもりで出陣し軍備も整えました。
薩長が錦の御旗を立ててさえいなければ、激しい戦闘をしていた可能性は高いです。

大政奉還&無血開城

「朝敵にならない」という慶喜の方針が英断に至った行為もあります。

それが「大政奉還」や「江戸城の無血開城」です。
慶喜の頑な姿勢が、無駄な死者を出さずに済んだといえます。

この辺の姿勢からは、良くも悪くも慶喜の一貫した尊皇思想が伺えます。
慶喜の尊皇思想によって、幕府はフラフラと揺さぶられました。

結果、江戸幕府、討幕運動に繋がってしまいました。

徳川慶喜の余生

余生は贅沢三昧

慶喜は、明治政府が建立されると静岡へ移住します。

明治政府からは相当な便宜を受けて、悠々自適な生活を送ります。
新しい日本の政治に関わることもなく、趣味に没頭。

カメラや油絵の芸術活動に終始した余生を過ごします。

旧臣には冷たい

明治政府下において、旧幕府の家臣は冷遇されます。
近代化の道を進む日本に幕臣は不要でした。

江戸幕府に仕えた者は困窮した生活を送ります。
家慶の旧臣は静岡の慶喜に泣きつきました。

しかし、慶喜はかつての家臣に冷たい対応を取ります。
救済することなく、独り趣味に興じました。

冷たい慶喜の態度も、評価が分かれます。
「明治政府に疑心を与えぬように配慮したのか」、「混乱を招く恐れを鑑みたのか」真意は不明です。

側室2人といびつな生活

慶喜は江戸を去る際に、側室2人を従えました。
側室2人の隠居生活はいびつなものでした。

隠居生活では、それぞれの側室に10人近い子供を作ります。
そして、2つの家族と一緒に暮らしています。

子供たちは、どちらが本当の母親かも意識せず暮らしていたそうです。
アラブの国の一夫多妻制です。

近代化の道を歩み日本において、なんとも歪な生活でした。

徳川慶喜逝く

1913年に徳川慶喜は死去します。
御年、77歳。

江戸幕府、最後の将軍は最も長命でした。

初代の家康が2番目に長い寿命です。
そう考えるとなんとも乙な結果ですね。

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