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勝海舟が評した若輩の名君「徳川家茂」

徳川将軍職に就任した15人の将軍をまとめます!
どの将軍も魅力的な人物です。

今回は14代目将軍「徳川家茂」です。

江戸幕府討幕まで残すところ、あと2人です。

家茂は幕末の動乱下においても、名君を目指していました。
個人的には頑張っていた健気な将軍という印象。

時代がもう少し早く生まれて、長生きしていたら、名君になっていたんでしょうね。

結論を端的に


©徳川記念財団

●井伊直弼の画策
→直弼の画策で将軍就任
→幕政の動乱に巻き込まれる

●開国から攘夷へ
→直弼が死に一橋派が実権
→公武合体運動発生

●真摯な家茂
→政治の蚊帳の外
→真面目に勤勉・鍛錬

徳川家茂を解説する!

14代将軍徳川家茂

14代目将軍、徳川家茂の治世下は幕末の動乱を迎えていました。
幕政はゴタゴタで政治は泥沼にハマります。

江戸幕府崩壊まで、残す将軍はあと2人。
家茂は維新の足音を感じつつ将軍に就任しました。

家茂は幕末動乱の時代に、国内外の思惑に翻弄された将軍です。
本人は若輩で政治の主導権を握らせてもらえませんでした。

終いには政治に介入出来ず、夭折します。
家茂は家臣からの忠義も厚く立派な君主であったと評されています。

あと少し早く生まれていたら、江戸時代の結末が変わっていたかもしれません。

急転直下の将軍就任

家茂は1846年に紀州藩主の父の下に誕生します。
紀州藩は御三家の名門、江戸時代屈指の御曹司の出自です。

家茂は幼少期より、文武両道の英才教育を受けます。
紀州藩の跡継ぎは将軍就任の可能性もあるので、厳しく育てあげられます。

その頃、江戸では将軍継嗣問題に揺れていました。
幕閣は病弱な13代目、徳川家定の後釜を探していました

井伊直弼の画策

当初、次期将軍の本命は15代目将軍になる徳川慶喜でした。
しかし、慶喜派の急先鋒である徳川斉昭が江戸で嫌われており、慶喜継嗣は頓挫します。

慶喜派は斉昭の影響もあり、次第に勢力を落としていきます。

江戸での派閥争いに勝利したのは、紀州派でした。
紀州派の井伊直弼の画策により、紀州藩から将軍を輩出されます

13歳であった家茂が将軍の座に就きます

揺れる幕政

井伊直弼の政治

家茂は13歳で将軍職に就任します。
とはいえ、13歳では幕政を握れません。

家茂を傀儡として井伊直弼が幕政を仕切ります

井伊は派閥相手である一橋派を追放して、政治を進めます。
大老として、大権を握る直弼でしたが一枚岩とはいきません。

開国・攘夷で割れる幕政をまとめあげることは出来ませんでした。

開国か攘夷か

揺れる政治の中で直弼は強硬な姿勢で開国を決めます。
これに一橋派(慶喜派)が大反対します。

一橋派は強く攘夷を訴えますが直弼がこれを処罰します。
安政の大獄で反対勢力の一橋派を取り締まります

安政の大獄は一橋派の志士の怒りを買いました。
直弼は攘夷派の手により桜田門外で暗殺されます。
→幕政は右往左往し、混迷します

攘夷派の公武合体運動

強硬的な開国派であった直弼はこの世を去ります。
すると、今度は攘夷推進の一橋派が実権を握り勢力を強めます。

後に家茂の義兄となる孝明天皇(バリバリの攘夷論者)も政権に加わり、開国から攘夷へ政策を転換していきます。

「攘夷じゃ!攘夷じゃ!朝廷と一緒に攘夷じゃ!」と幕府と朝廷が手を結ぶ公武合体運動がおきます。

家茂の真摯な姿勢

幕政が揺れる中でも、家茂は文武の上達と政治学を学びます。
権威ある徳川将軍家の名に恥じぬように将軍職を全うしました。

勉強熱心で懸命に研鑽を重ねる家茂。
しかし、彼が歴史の表舞台で活躍することはありませんでした。

徳川家茂の結婚

難航する政略結婚

家茂の結婚相手(正室)は政略結婚でした。
本来、徳川将軍家の正室は、政略結婚が常です。
→家茂も例に漏れません

権威が失墜した幕府は、朝廷とのコネクションを欲しがります。
そこで、孝明天皇の妹である和宮さんと家茂の縁談が持ち上がります。

しかし、和宮さんには宮中に許嫁がいました。
彼女は許嫁を愛しており、この政略結婚に大反対です。

なんで、わらわだけが、こんな悲惨な目に合わねばならぬのか
和宮さんは、さながら江戸版ジュリエットです。カワイソス

愛妻家、紳士な家茂

幕府への輿入れを大反対した和宮様ですが、権力には逆らえません。
結果的に家茂との縁談が決まります。

和宮さんは、家茂に全く好意がありません
当初、家茂を徹底的に遠ざけます。

徳川将軍の通例では、正室はお飾りの存在です。
しかし、家茂は紳士に和宮さんに愛情を注ぎます

紳士な姿勢

家茂は側室を持ちませんでした。

そして、心を開かない和宮さんに、贈物を送ります。
和宮さんの体調を崩すとしっかりと気遣います。

真摯な家茂の愛情が、徐々に和宮さんに伝わります

あれ、なんだか江戸の殿様はとても、わらわにお優しい
和宮さんも次第に家茂に好意を寄せ始めます。

政略結婚の正室と将軍がおしどり夫婦になりました。
愛妻家の面でも家茂の紳士な人柄が伺えます。

名君こそ早逝す

人望の厚い家茂

家茂は、自分が意図せずに徳川将軍職に就きました。

棚ぼたで将軍職に就いた家茂ですが、懸命に努力しました。
徳川将軍の名に恥じぬように将軍職に邁進。

家茂は懸命に努力しますが動乱の中、若輩者は隅へ追いやられます。
幕閣の有力者に幕政は握られてしまいます。

名君の誉あり

幕末の動乱の中、家茂はめげずに勉学へ励みました。
家茂の姿に側近も心打たれています。

家茂は、幼少期の頃からの池の魚や小鳥への餌やりが趣味でした。
些細な趣味も「将軍には似つかわない」と自身で控えます。

家茂は長生きしていれば名君として、誉れ高かったかもしれません。

家茂のいい奴エピソード

徳川将軍のいい奴エピソードは、どの将軍にもついて回ります。
家茂にもいいエピソードが多くあります。

その中でも「家茂、書のエピソード」は良くできた話です。

家茂書の逸話

ある日、書の鍛錬を受けていた家茂。
書の練習に励んでいた家茂は急に立ち上がります。

家茂は墨汁を摺るための水を持ち、書の師範代にぶっかけます。

急な乱暴行為に周りの家臣は戸惑います。
「あんな癇癪、いつもの殿とご様子がおかしい」と家臣は訝しみます。

そんな家臣を尻目に家茂はケタケタと笑い転げます。
「そんなら、また明日な」と言って、その場を去ります。

残された家臣は、書の師範代の下に駆け寄ります。

「大丈夫ですか?」と家臣が師範代に問うと、師範代は泣きます。
師範代は「申し訳ござらん」と詫びます。

なんと書の師範代は、あろうことか将軍の前で失禁していました。
家茂は、それをいち早く察し、書の師範代を救いました。

「将軍の前で失禁したとなれば書の師範代が罪に問われる」と判断しました。

その判断により、水をぶっかけ、書の師範代を救いました。
危機察知能力と機転の良さと思いやり深さ、とんでもない傑物です。

徳川将軍家には、将軍の名を上げるために、このような良いエピソードが多くあります。
しかし、家茂のエピソードは、本当なのではないかと思わせてしまう程いい男です。

家茂没す

1866年、20歳の若さで、家茂はこの世を去ります。

幕末の動乱を救った勝海舟は家茂を評価していました。
「家茂公が早逝されなければ、さぞや名君になっていたことであろう」と評しています。
家茂が亡くなった日の日記は、『徳川家、今日滅ぶ』と書いたほどです。

家茂の死が江戸幕府投了に決定的でした。

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