そうせい将軍「徳川家慶」

徳川将軍職に就任した15人の将軍をまとめます!
どの将軍も魅力的な人物です。

今回は12代目将軍「徳川家慶」です。
家慶の時代には幕末の足音が聞こえてきます。

家慶治世下ではペリーが来航します。

幕政は先代家斉のせいで混乱しています。
混乱是正のため、江戸3大改革を仕掛けていきます。

徳川家慶の結論を端的に

©徳川記念財団

●父、家斉とは不仲
→父とは逆に真面目で実直
→長い間、くすぶる

●天保の改革を実施
→水野忠邦が江戸の三大改革を実施
→お決まりの質素倹約

●そうせい将軍
→「そうせい様」と揶揄
→政治への関心は薄い
→最後はペリー来航

くすぶる将軍徳川家慶

12代将軍徳川家慶

前11代将軍徳川家斉は自由奔放がモットーでした。
奔放政治のおかげで江戸の世は汚職や賄賂で風紀が乱れます。

奔放な父と違い家慶は真面目な性格でした。

そのため、父家斉と度重なり衝突し、徐々に政治に関心を失います。
家慶治世下では家臣の水野忠邦や阿部正弘が幕政を運営します。

家慶の最晩年期には、ペリー来航がするなど幕末の足音が近づきます。

くすぶり続ける家慶

12代将軍徳川家慶は、先代将軍家斉の次男として、江戸城に誕生します。

家慶の長兄は、早逝しており、将軍継嗣順序が家慶に回ってきます。

とはいえ、先代家斉は徳川将軍家きっての長寿でした。
家斉は永らく、将軍職に居座ります。

晩年に将軍就任

結果的に家慶が将軍につくのは1837年の家慶が45歳の時でした。

元来、徳川将軍職は、早い段階で継嗣を済ませます。
大御所として、政権に残る形が、家康公の時からの不文律です。

しかし、家斉は家康公への敬意も薄く、将軍職を家慶に譲りません。
家慶は、ずっと江戸城下にて、「坊ちゃん」としてくすぶり続けます。

 

家斉と不仲

1837年、45歳にしてようやく将軍職に就いた家慶。
ですが、家斉は政治の実権を譲りません。

家斉は大御所として相変わらず居座り続けました。

奔放であった家斉の時代は、文化は発展します。
ですが、賄賂や汚職が横行しており政治は混乱を招いていました。

真面目な家慶はこれに反発していたとされます。
家斉と家慶の関係は良好ではなかったと推察されます。

家慶は腐敗しきった社会が我慢できなかったのでしょう。
1841年に家斉が死去すると、家斉派の家臣を一掃します。

天保の改革

水野忠邦の「天保の改革」

家斉が亡くなると、家慶は、幕政に関わる家斉派を一掃します。
そして、新たに、水野忠邦に政治改革を一任します。

水野忠邦は「質素倹約」を謳って、風紀を取り締まります。

当時の社会は、汚職や賄賂で風紀が乱れています。
「風紀の乱れ」「質素倹約」は江戸時代の鉄板パターンです。

当時の政治は引き締め、奔放、引き締めと二転三転します。

お決まりの質素倹約

幕政を一任された忠邦は、「質素倹約」と息巻き改革を推進します。
江戸幕府は風紀の乱れ(文化の興隆)→質素倹約(文化の衰退)を繰り返します。

  • 5代将軍綱吉の生類憐みの令からの8代将軍吉宗による「享保の改革」
  • 田沼意次の賄賂政治からの松平定信の「寛政の改革」
  • 今回の11代将軍家斉の奔放政治からの水野忠邦の「天保の改革」

歴史は繰り返すというか、100年単位で同じことを繰り返しています。

質素倹約+地位向上

天保の改革も今までの改革同様で「質素倹約」を大テーマに掲げます。
今回は質素倹約に加え、「幕府の地位向上」が加えられます。

その背景には、隣国、清のアヘン戦争での敗北があります。

「超大国、清がエゲレス(イギリス)とかいう西欧の国にボコボコにされたぞ。こりゃ、まずいぞ。外敵には一枚岩で抗う必要がある。皆結束してくれい」
と幕府の地位向上に繋がりました。

天保の改革始動

天保の改革は「質素倹約+幕府の地位向上」で動きます。

幕府は地位向上のため言論統制を敷きます。
蛮社の獄などで不満分子を取り除きます。

また、上知令(諸藩の領地を幕府に没収)を出し強硬姿勢を示します。

忠邦の改革は、諸藩含め庶民からも総スカンをくらいます。
一致団結を謳い、言論統制や増税は理不尽だろ」と不満爆発です。

結果的に、将軍家慶からも、「天保の改革はダメだ」と烙印を押されます。
そして、水野忠邦は失脚し。天保の改革はゲームセットです。

「そうせい将軍」徳川家慶

「そうせい様」と揶揄

12代将軍徳川家慶は「そうせい様」と揶揄されます。
由縁は家慶が政治への関心がないからであると言われています。

家慶は政治に関心がなく、趣味の絵画に没頭していました。
趣味に没頭し、家臣へ幕政を任せます。

家臣から提示された方策に「そうせい、そうせい」と答えていました。
政治に口を出さない「そうせい将軍」と呼ばれてしまいました。

父家斉が晩年まで政治に口を出しました。
そのことから家慶の存在感が薄かったのも理由にあります。

父親譲りの精力の強さ

家慶は家斉と仲が悪かったとされています。
しかし、父親譲りの精力と生命力を持ち合わせていました

家慶は、子供を27人も授かりました。
家慶の絶倫ぶりを伺わせます。

ですが、これも父家斉と同様に、子供たちのほとんどが早逝します。
結果として、13代目将軍、徳川家定だけが、成人まで生き残りました。

ペリー来航&熱中症で死す

徳川家慶は1853年に亡くなります。
1853年とは日本史の大きな転換点の1つとして挙げられています。
ペリーの黒船来航です。

1853年浦賀沖に黒船が4隻来航し「国交を結ばんかい」と襲来します。
この黒船の来航に幕閣はあたふたと慌てます。

幕閣は白昼堂々と熱い議論を繰り広げます。
「黒船を打ち倒せ」、「いや、そんなことしたら清の二の舞だ」と熱い論戦が繰り広げられます。

そんな熱気が城内の温度を上げてしまったのか、将軍家慶はペリーが来航して、わずか1か月も経たずに熱中症で亡くなります。

あまりのショックで亡くなってしまったのでしょうか?
1853年、それでも当時としては高齢の61歳で生涯を閉じました。

父親に比べると面白さにはかけるけど、幕末へと向かう一歩目を踏み出した時の将軍と覚えましょう!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。