奔放道楽の将軍「徳川家斉」

徳川将軍職に就任した15人の将軍をまとめます!
どの将軍も魅力的な人物です。

今回は11代目将軍「徳川家斉」です。

今回の徳川家斉は11代目です。
後5人で江戸幕府は滅亡に追い込まれます。

個人的にはは徳川将軍家の中で一番好きな将軍です。
豪快さと奔放さがTHE将軍って感じです。

徳川家斉の結論を端的に


©徳川記念財団

●注目度№1の将軍
→道楽将軍として象徴的
→自由奔放な社会、文化は最盛期を迎える

寛政の改革
→松平定信の寛政の改革
→脱汚職、風紀を正す

●化政文化
→東洋のルネッサンス
→江戸文化の最盛期

注目度№.1将軍徳川家斉

徳川家斉は注目度№1の将軍

11代目将軍、徳川家斉は注目度№1の将軍です。

将軍としての見どころ満載です。
家斉は道楽将軍の象徴的な存在です。

家斉の治世下では急転直下に政治が動きます。

一方で、資金が幕府からどんどんと一般社会に流れます。
そのため、文化面では栄華を極めます。

数多くの文化人を輩出し、江戸の華の時代でした。

家斉の残虐性

家斉の幼少期

徳川家斉の父は徳川治済と言います。
治済は8代目将軍の徳川吉宗の孫にあたります。

治済は徳川御三卿の1つである一橋家を継いでいました。
家斉は1773年に一橋家の嫡男として、産声をあげます。

家斉は、名門の出身です。

異常癖

家斉の幼少期は、異常癖ともとれる言い伝えが残されます。

家斉はしきりに家臣に蟹や鶏などを集めさせました。
そして、集めたものを片っ端から踏み潰したり、握り潰して遊びます。

そうした、動物虐待を繰り返したされています。
家斉は虐待をして、「ケタケタ」と笑い転げていたとされます。

とんでもない残酷な一面がありますね。

15歳で江戸幕府の将軍就任

10代目将軍家治に、男の世継ぎが生まれません。
ようやく誕生した男の子も夭折してしまいます。

将軍継嗣問題が江戸の世では取り沙汰されます。

この時代の幕政は、よく将軍継嗣問題で揺れ動きます。
跡継ぎ未定のまま、家治が心不全で亡くなります。

父、治済が画策

将軍継嗣に揺れる幕府内で、家斉の父、治済が色々と画策します。
治済は家斉に本家の将軍に据えようとします。

名家の一橋家ですので、将軍の座は充分に狙えます。
障壁は家斉の性根でした。

幕府は混沌とした世に再び徳川の威厳を示す必要がありました。
そのため高い求心力のある将軍を待望していました。

幼少期に残虐性を見せていた問題ありの家斉です。
しかし、この時ばかりは好青年を演じ将軍の座を射止めます

寛政の改革

混沌とする日本各地

天明の大飢饉

この頃、日本は天災が続き、天明の大飢饉に見舞われます。
天明の大飢饉は、近代日本の中で最も深刻な飢饉です。

東北地方を中心に数十万人単位の餓死者を出しました。
火山の噴火も被害を甚大にし、東北地方は壊滅的被害を被ります。

汚職政治への怒り

飢饉が進む中、幕府の役人は賄賂や汚職が蔓延ります。
幕府腐敗の象徴として田沼意次は担がれます。

飢饉の中、対応策もままならず政治は停滞します。

大激怒した農民を中心にが各地で一揆や打ちこわしを開始します。
東北だけでなく、東京や大阪でもカオス状態に陥ります。

「おいらが悪天候の中、必死に米作ってるのに…役人はなにしるんさ」
と農民のストレスは爆発します。

松平定信の緊急登板

この大ピンチの幕政に緊急登板するのが、松平定信です。
松平定信は、政治のカリスマとして、知られていました。

幼少期より聡明で、ついには老中首座にまで上り詰めます。

そして、定信が荒れ果てた幕政を改革していきます。
寛政の改革」の始まりです。

 

寛政の改革

寛政の改革の基本は「質素倹約」です。
「あれ?質素倹約って吉宗の享保の改革じゃないの?」
と思われますが、その通りです。

寛政の改革は享保の改革と同じ路線で走ります。
因みに後の天保の改革も「質素倹約」がメインです。
→「江戸時代の改革=質素倹約」と理解してOKです

風紀の取締り

松平定信は、まず風紀の取締りを図ります。

役人の賄賂や汚職を撤廃します。
また、庶民の思想や文化活動を統制します。

思想統制としては、蘭学の否定をします
→享保の改革では蘭学を推進していました

治安回復

定信は人足寄場という社会保障施設を作ります。
これは軽犯罪者や幕府に都合の悪い人間を更生する自立支援施設です。

人足寄場では、生活支援や職業訓練も行われました。
当時の世では珍しいかなり先進的な試みです。

経済回復

逼迫した財政も立て直しを計ります。
経済では、緊縮財政を敷いて、幕政の安定を図りました。

飢饉への対策として、「囲米」という食糧の備蓄義務を諸藩に命じます。
また、旗本・御家人の幕府への債務を軽減しました。

徳川家斉 vs 松平定信

家斉の介入

松平定信が質素倹約で厳しく幕政の建て直します。
しかし、定信に逆風が吹き荒れます。

時の将軍である家斉が政治に興味を持ち始めます。

家斉は元来、自由奔放がモットーでした。
家斉は、松平定信の「質素倹約」路線とそりが合いません。

家斉 vs 定信

江戸城下では「家斉 vs 定信」という構図が立ち上がります。
争いは激しくなり将軍と老中首座がぶつかり合います。

江戸の幕閣は、将軍家斉の肩を持ちます
「定信は厳しすぎる。いっちょ将軍様に出張ってもらいやしょう」
と結局、将軍の威光が勝ります。

こうして、幕府の窮地を救った定信は歴史から姿を消します
その後は将軍である家斉が政治の実権を握りました。

徳川家斉の政治

贅沢三昧の道楽政治

賄賂を推奨

家斉は政治の実権を握ると、水野忠光を登用します。
水野忠光は、松平定信と打って変わって、贈賂を推奨します。

元々、奔放であった家斉は、「待ってました」とウキウキです。
道楽に拍車がかかり、贅沢三昧を繰り広げていきます

将軍家の羽振りが良くなります。
結果的に江戸の街にはお金が垂れ流れます。

文化が大発展

庶民にお金が流れると文化活動が活発になります。
この頃の文化を「化政文化」と呼びます。

この化政文化は日本史上最強の文化かもしれません。
それ程、多くの文化人を排出します。

杉田玄白・平賀源内・本居宣長・曲亭馬琴・上田秋成・十返舎一九・与謝蕪村・喜多川歌麿・葛飾北斎・歌川広重などなど凄いメンバーが顔を並べます!
→(化政文化すげえ)

まるで、東洋のルネッサンスとも言わんばかりの文化啓蒙活動です。

幕政の不安定化

道楽の家斉

家斉は贅沢三昧するので、幕政は不安定です。
道楽政治は方々で破綻をきたします。

「異国船打ち払い令」で、日本近海を通る外国船を片っ端から攻撃します。
→幼少期の残虐性がこんなところで出てしまうとは…

異国船打ち払い令は費用がかさみました。
更には、家斉の奔放ぶりに幕府の出費がかさみます。

大塩平八郎の乱

揺らいだ財政を立て直そうにも、贈賂や汚職で政治は停滞します。

地方の役人は不満を募らせ、どんどんと幕府から離心していきます。
「異国船に打ち払う金も幕府に差し出す金もねえよ。もうすっからかん」
と不満を漏らします。

有名な大塩平八郎の乱が起きたのもこの頃です。
幕府の役人が反乱を起こしたと大騒動に発展します。

家斉の政治は、良くも悪くも派手でした。

圧倒的将軍感を放つ徳川家斉

歴代ナンバー1を樹立

圧倒的な将軍メンタル

家斉の将軍在任期間は約50年間と歴代将軍の中でナンバー1です。
更にはその50年間、日光東照宮へ一度も社参していません。

日光東照宮への社参は歴代将軍の恒例行事。
徳川家康公を神格化して祀る社参は、将軍の慣習です。

家斉が社参しなかった意図は不明ですが、家康への不遜な感情であれば傑物です。

俺が俺でそれで文句あっか?俺こそが本物の征夷大将軍じゃい」という家斉の圧倒的な将軍メンタリティなら胸熱です。
それでも過去のものに捉われない前衛的な思考が、文化興隆を生んだのかもしれません。

子供の数ナンバー1

家斉は子供の数でも歴代ナンバー1を樹立しています。

子供の数はなんと53人です。
家斉は圧倒的精力の強さを誇りました。

家斉の子供は半数が成人を迎えられず亡くなりました。
(父親に精力をとられたのか?可哀想)
→家斉の家系はほとんど後世に残りません

無類の女好き

家斉は徳川将軍家きっての女好きです。
特定されている嫁の数は16人です。

8代の吉宗、10代の家治が行った大奥の削減も意味がありません。

逢瀬を重ねた人数は数え切れないといわれています。
全国から美女を集めて、大奥に入り浸りました。

家康公を倣って、オットセイの陰茎を粉末にし、精力剤として飲みました。

また、酒豪であったことも知られています。
酒に女にとても、乱れた将軍ですね。

それでも、その豪快さはいさぎの良さすら覚えます!

家斉逝く

そんな徳川家斉も1841年69歳にして、この世を去ります。
死因は特定されておりません。

江戸幕府滅亡が1868年です。
家斉の時代が、江戸幕府最後の輝いた時代ともいえますね。

家斉が江戸幕府崩壊に加担した可能性は大です。

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