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【徳川将軍解説】「徳川家康」江戸幕府の創設者

徳川将軍職に就任した15人の将軍をまとめています!
どの将軍も魅力的な人物です。

今回は「江戸幕府を開いた天下人である徳川家康」まとめます。
徳川家康の認知度は徳川将軍家の中でも屈指です。

大河ドラマでは、敵役として描かれることが多く嫌な印象を抱く人もいると思います。

三英傑(信長・秀吉・家康)の中では、ファンが少ない印象です。
とはいえ「結果的に天下を取った家康が1番評価に値する」という層もいます。

それでは、徳川家康の素顔について迫っていきたいと思います。

結論を端的に

徳川家康
©狩野探幽

●忍従の人
→偉大なる江戸幕府の祖
→家康は耐える人

●江戸幕府の礎を築く
→朝廷と大名を支配下に置く

●戦国三英傑の1人
→信長・秀吉に匹敵する
→人間臭い一面アリ

徳川家康の忍従

徳川家康は忍従の人

徳川家康は江戸幕府の創設者です。
家康は織田信長・豊臣秀吉と並んで戦国の三英傑と称されます。

結果的に天下を手中に治め、260年という長い独裁国家を作り上げた偉人です。
戦国乱世の息を終息させたのも家康です。

家康の略歴はずらっーとあり、まさに波乱万丈です。

徳川家康を一言で表すと「忍従の人」
耐えて、耐えて、耐えて、最後に天下を取ります。

忍従の家康

家康は幼少期から織田家と今川家の人質として転々としました。
幼少期には信長と面識があったとされています。

元服し、家督を継ぐも今川家から支配を受けます。
信長が今川家を撃破すると、魔王信長に同盟という名の従属を強いられます。

信長との同盟により、徳川の相手は戦国最強の武田家です。
家康は武田家の猛威から必死に耐えます。

耐えに耐えて、武田家を打ち破ると、次は北条家という東の超大国が現れます。
信長の死後は豊臣秀吉に与し、秀吉の配下に終始甘んじます。

秀吉が大盤振る舞いする中、家康はその間も必死で秀吉の配下として耐えます。
圧倒的な才を持て余してしつつ、野心を沸々と内に秘めて耐えに耐えまくります。

忍従解放!

忍従」の二文字を背に、耐えまくる往年の家康に、吉報が訪れます。
主である豊臣秀吉が病で亡くなったという知らせです。

しかも、幸運は重なります。
豊臣家の跡取り息子はまだ幼い子供というおまけ付きです。

「この機を逃さまい」とこれまで耐えていた家康の野心が爆発します。
「鳴くまで待とう時鳥」がついにわーわー泣き喚きます!

家康は天下取りを画策します。
秀吉がなくなると家康は速攻で戦の算段を始めます。

表の顔では「太閤殿下がお亡くなりに…悲しす…」と言いながら、
裏の顔は「これで目の上のたん瘤が無くなった。やりたい放題だ」と喜びます。

家康の天下どり

天下分け目からの家康の野望

家康は、秀吉が逝くと速攻で野心をむき出しにします。
豊臣治世下を巧みに立ち回り、石田三成と敵対。

家康は豊臣家恩顧の武将を次々と自分の陣営へ引き込みます。

こうして迎えたのが天下分け目の「関ケ原の戦い」です。
家康陣営は光成陣営を瞬殺します。

この戦で次の世の趨勢は決します。
名目上はどちらが秀頼の後見人に相応しいかで争っていました。

関ヶ原で勝つと「家康の野望」は増長。

豊臣秀頼が幼い頃に、豊臣家滅亡を画策します。

豊臣家が存続する中で家康は征夷大将軍に堂々と就任。
自身の領土であった江戸に勝手に幕府を開きます。

秀頼は大阪に領地を持ちますが、天下は江戸を中心に動きだします。

豊臣家を滅ぼす

豊臣秀頼が成人すると、家康は秀頼の存在が邪魔になります。
秀頼の存在は、今後の徳川家の繁栄を考えると敵対勢力といえます。

忍従の家康はもう耐えることを忘れていました。
家康はツマラナイ言いがかりをつけて、罪のない豊臣秀頼を攻撃。

大坂の陣にて、豊臣家を滅亡に追い込みました。
実質これで戦国の世が終了します。

豊臣家が滅びると、安心したかのように家康もこの世を去ります。

家康が江戸幕府の礎を築く

家康は「忍従」という卓越した能力以外にも利害関係の調整がとても上手でした。

「禁中並公家諸法度」という触れで朝廷を徳川家の手中に治めます。
「武家諸法度・一国一城令」という触れで各国の大名をも管理下におきます。

家康は各勢力を次々と手中に治め、江戸幕府の礎を創りました。

このような神がかり的な手腕は後世の将軍に神格化されます。
そして、後の将軍は「家康公、お力を下さい」と日光東照宮へお参りに行きます。

家康の魅力ある人間味

家康の黒歴史 三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦い

戦も上手く、政治手腕も抜群、江戸幕府を一代で成し遂げた徳川家康。
スーパーマンの家康にも親しみやすくする逸話があります。

家康が若かりし頃、武田の騎馬隊と決戦がありました。
徳川領内に武田の騎馬隊が襲来します。

武田の騎馬隊は戦国に名を轟からせる最強の戦闘集団でした。
そんな武田の騎馬隊に徳川勢は一方的に粉砕されます。

武田の騎馬隊は猛烈な勢いで家康の首を狙います。

武田軍は家を必死で追い回します。
武田の騎馬隊の勢いは猛烈で、家康のすぐ傍まで近づきます。

家臣が身代わりになり、家康はなんとか一命を取り留めます。

あまりの恐怖に

武田軍の猛攻は続きました。
家康の首元を武田兵の槍が襲います。

家康は余りの恐怖に、逃げながら脱糞してしまいます。

馬上での華麗なる脱糞。
茶色の飛沫をあげたことでしょう。

人間が死の極限状態に落ち込むと脱糞するという教訓になります。

家康はみずからの糞をまきびし代わりとして、命からがら居城に逃げ延びます。

家康の傑物たる由縁

後に日ノ本を治めて、周囲からは大御所様と呼ばれていた家康。
天下の殿様も若かりし頃は、かような脱糞劇を繰り広げていました。

家康の凄いところは脱糞劇をも自らの糧にするところにあります。

家康は城へ漏れ帰ると直ぐに絵師を呼びつけます。

そして、絵師に脱糞した自分の人相を書かせます。
「この時の悔しさを忘れない」とする家康の想いがあったそうです。

そういうところは家康の人間臭さが漏れ出しています。

絶倫の家康

将軍継嗣問題

徳川将軍家に代々とつきまとう問題が将軍継嗣問題です。
「誰が次期将軍になるのか?」という継嗣問題はどの治世でも揉めました。

子供が沢山出来れば、長子から順に継承権があります。

しかし、徳川将軍家には、子供を授からない将軍が結構登場します。

継嗣問題には、どの時代も施策をこらします。
大奥を作り日本中から美女を集め、将軍の夜の営みを充実させます。

そこまでして、必死で将軍継嗣問題に力を注ぎました。

名君の器

「跡取りを作る」という点においても家康は名君の器でした。
家康は絶倫ぶりを見せつけました。

性力をつけるため、松前藩からオットセイの性器をわざわざ取り寄せます。
精力剤を煎じて、飲み継嗣のためにハッスルしました。

家康の子供は、正室、側室合わせて18人の子供が生まれます。
→実際はそれ以上とも言われる

この子供たちが、御三家という後の将軍継嗣問題に大きく寄与するシステムを作り上げました。

家康の死

そんな絶倫家康も寄る年波には敵いません。

家康の死因ははっきりとしていません。
胃がんという説が有力です。

家康は1616年75才で亡くなります。
当時としては、かなりの高齢です。

家康の寿命は徳川将軍家歴代2位の長寿。

家康は死後、日光東照宮に祀られます。
その後、徳川幕府が傾くと将軍たちは家康公を仰ぎに東照宮へ参るのでした。

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