中国共産党の暗黒事件「六四天安門事件」を丸わかり解説

世界史

中国では中国共産党の一党独裁体制が続いています。

中国には国民に基本的人権がありません。
それが善し悪しはさておき、中国は共産党の圧政により国家運営が成立しています。

天安門事件(六四)は共産党の基盤を揺るがす大事件です。
共産主義から民主主義へ転換する機運が最も高まった事件でした。

今回は天安門事件の原因と結果を丸わかりで解説します。

天安門事件をわかりやすく解説

天安門事件とは

天安門事件とは1989年6月4日に発生した民主化運動に対する武力鎮圧事件です。
民主化を求めたデモ隊(学生)と中国人民解放軍による衝突が発生します。

中国共産党が軍隊を行使して市民を弾圧しました。
装甲車の投入、無差別発砲と政府による大規模粛清事件として知られています。

国民を守るための軍隊が国民を虐殺するという暗黒事件でした。

天安門事件の原因

1980年代末になると東側諸国は瓦解し始めます。
ソ連はゴルバチョフの「ペレストロイカ」の一端により急速な情報開示(言論の自由)が認められます。

この流れは共産党である中国にも飛び火します。
胡耀邦国家主席は中国国内でも言論の自由化を指導します。

言論の自由化は、共産党の一党独裁による利権を脅かすものです。
そのため、共産党を牛耳る(鄧小平等)により胡耀邦は失脚させられます。

その後、胡耀邦が失脚したままに死没します。
胡耀邦の死により、燻っていた民主化の波が学生を中心に巻き起こります。

天安門事件の流れ

天安門事件は胡耀邦の死(4/15)を契機に始まります。
民主化運動推進派の学生が天安門広場(北京)でデモを開始します。

デモは地方都市へも広がり徐々に共産党を脅かす勢力へと成長していきます。
胡耀邦の死の翌月(5月)に入るとデモ隊はどんどんと膨れ上がります。

50万人以上が天安門広場を占拠し、公安警察が統制不能に陥ります。
全土の学生が北京を目指して集結しました。

共産党内部の亀裂

デモが過熱する中で共産党内部でも亀裂が生じます。
胡耀邦派の趙紫陽と李鵬派(共産党中枢)に分かれます。

趙紫陽はデモを評価し、融和的な解決を目指しました。
一方、李鵬は弾圧路線でデモ隊を敵視します。

結果、趙紫陽は失脚し、共産党によるデモ隊への軍事介入が決まります。

運命の6月4日

5月はゴルバチョフ訪中を終えると共産党はデモ隊への強硬姿勢を見せます。
6月に入ると人民解放軍が北京を目指します。

6月4日には解放軍が天安門広場にて衝突するデモ隊へ無差別発砲が発生しました。

天安門事件と中国共産党、3つの闇

情報統制

中国では現在も共産党主導による情報統制が敷かれています。
共産党へのネガティブな情報は排除されて、共産党都合の世論形成です。

インターネットが発達しても情報統制機能は変わりません。
むしろ、ネット上で共産党を支持する世論を作りあげるのに活用されています。

天安門事件も当然、情報制限されています。
中国の検索エンジンでは「天安門事件」、「六四」に関するワードが接続不能です。

当時の情報統制

当時の中国も国内外で厳しく情報統制がされていました。
基本的に海外メディアの出入りは厳密に制限されまていました。

ただ、天安門事件の直前に、ゴルバチョフが訪中します。
ソ中関係の改善を世界へアピールしたい中国は海外メディアの入国を許容します。

その機をついて学生運動体は中国の実情を世界へアピールしようとしました。

人権はない

天安門事件は政府(軍)による市民の虐殺です。
犠牲者数は前述の情報統制により定かではありません。

中国政府の発表では300名超ですが、他国の報道では遥か上の数字です。
イギリスの外交機密文書では1万人を超える犠牲者と出ています。

共産主導の社会では民主主義的な人権の尊重はありません。
敵対勢力へは弾圧、情報操作が横行しています。

反日教育

天安門事件は中国共産党に学びを与えます。
その学びは国民の愛国心の大切さです。

共産党を支持する愛国心の醸成へ躍起となります。
その基盤が反日教育です。

抗日戦争にて日本から中国を救い、建国へ導いた共産党の偉大さを讃える教育です。
日本を敵国と定めることで共産党への批判を日本へ向けます。

支配者が歴史を作ることを体現しています。

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