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奥羽の最大勢力 「伊達家」

戦国絵巻東北編

日本全国で大名が凌ぎを削った戦国時代。
次々新たな勢力が台頭し、群雄割拠の時代に突入しました。

戦国大名はそれぞれのドラマを持ち栄枯盛衰の世を送りました。
それぞれの戦国絵巻を覗くことでそこにあるドラマを紐解いていきます。

今回は東北を代表する戦国大名である「伊達家」です。

伊達家は長らく東北地方に強く影響力を持った戦国大名家。
特に「伊達政宗」は天下を狙うことが出来た傑物とされています。

その他も父子骨肉の争いなど陰謀、策略に枚挙に遑がありませんでした。

今回は「伊達稙宗→伊達晴宗→伊達輝宗→伊達政宗→伊達忠宗」までを振り返ります。

伊達家の出発点

伊達稙宗の貢献

伊達家は元来、陸奥地方の地頭職を務めていました。
室町幕府にも強いパイプを持ちます。

伊達家を戦国大名へと押し上げたのは伊達家14代当主伊達稙宗(1488-1565)。
稙宗(タネチカ)は1514年に伊達家の跡目を継ぐと血気盛んに領土拡大に乗り出します。

最上家を支配下に入れ、葛西家・岩城家と争い領土を拡大。
中央権力にも繋がりを求めて、東北での地位を盤石なものにします。

1536年には分国法である「塵芥集」をまとめます。
「塵芥集」は条文171条にもわたり、同年代最大級の分国法。
各種犯罪における刑罰、訴訟方法、利息の制定など多岐にわたります。

伊達家の戦国大名化には稙宗の貢献度は多大でした。

天文の乱

伊達家は稙宗の辣腕でどんどんと領土拡大を果たします。

領土増大により家臣団も肥大化。
徐々に稙宗に反目する家臣が登場します。

稙宗と対立する家臣団をまとめたのが長男の伊達晴宗(1519-1578)でした。
稙宗と晴宗の親子関係に亀裂が走り、両者は敵対します。

両者の対立は天文の乱(1542-1548)と呼ばれる内乱に発展。
6年間に及ぶ激しい戦いが勃発します。

当時、奥羽の全大名に伊達家は影響力がありました。
養子、婚姻関係などの繋がりがあり、奥羽の諸大名が天文の乱に引きずりこまれます。

天文の乱は伊達家のお家騒動から奥羽全体の合戦へ肥大化していきます。

天文の乱の決着

天文の乱は当初、奥羽地方に一大勢力を築く稙宗側が優位に進めます。
しかし、戦乱は膠着化し、徐々に晴宗が盛り返します。

諸大名内でも稙宗派、晴宗派が生まれ、対立は奥羽一円へ広がります。
そして、有力家であった蘆名家が晴宗側に加担したことから晴宗が優位にたちます。

1548年に室町幕府将軍の足利義輝が仲裁に入り決着がつきました。

実質的には晴宗が勝利を収め、稙宗は隠居します。
勝利した晴宗は伊達家15代当主を継ぎます。

奥羽の混乱と伊達家

晴宗の苦悩

晴れて伊達家の当主になった晴宗でしたが前途多難。

先の天文の乱は伊達家の支配領域を大きく失いました。
伊達家同士で敵対する中で、蘆名家、相馬家、最上家が独立、大崎家・葛西家も力をつけ奥羽地方は勢力が乱立。

特に、蘆名家、相馬家とは激しい武力衝突を繰り返します。
晴宗は失地を取り戻すために、戦いました。

またもやお家騒動

晴宗は1564年に隠居して、次男の伊達輝宗(1544-1585)へ家督を譲ります。
隠居後も晴宗は積極的に伊達家の運営に携わりました。

いつまで経っても実権を手放さない晴宗に当主輝宗は嫌気がさします。
親子間でまたもや溝ができます。

今回は内乱に至る前に輝宗が晴宗の最側近を始末して、晴宗は引退を決めます。

3世代続き、親子関係は良好ではないようです。
ちなみに、輝宗と政宗にも不仲説があります。
もしかしたら伊達家の父子不仲は4世代続いたのかもしれません。

他国への介入

伊達家16代当主は伊達輝宗です。
輝宗は外交能力に秀でて他国との関係を重んじます。

輝宗は家督を継ぐと同時に最上義光の妹にあたる義姫を妻に娶ります。
中央の織田家にも接触して、関係を作ります。

その他では北条家、柴田家(柴田勝家)などとも関係を深めました。

戦闘では、越後上杉領に侵攻。
謙信の後継者争いである御館の乱にも介入しました。

宿敵である相馬家には苦戦を強いられます。
相馬盛胤、相馬義胤親子が伊達の南下を防ぎます。

秀吉の台頭

本能寺の変後、力をつけた秀吉。

秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田家を滅亡させます。
輝宗は勝家に援軍を送ろうとするも、佐竹義重率いる佐竹家の脅威に動けませんでした。

伊達政宗の活躍

独眼竜の暴れぶり

1584年に輝宗から家督を譲り受けたのが伊達政宗(1567-1636)です。
政宗は伊達家17代目当主に就きます。

政宗が当主になってからまもなく、父・輝宗が二本松義継に拉致されます。
政宗は苦渋の選択の末、父親もろとも拉致したものを射殺。

惜しくも父親を殺す選択をした政宗は弔い合戦を開始。

二本松城を包囲するも「人取橋の戦い」が発生します。
佐竹家・南奥羽の諸大名家が阻止に入り、上手くいきませんでした。

初期の政宗

血気盛んな政宗に対して、各国諸大名は警戒を強めていました。
そのお陰で初期の政宗は上手く侵攻出来ませんでした。

1587年に惣無事令が出されるも政宗は無視。
侵攻作戦を続けることで徐々に支配領域を拡大させます。

天下を狙うか悩む政宗

政宗は他国への侵攻を進めて、遂に会津にて蘆名家との決戦を迎えます。
蘆名家は伊達家に並ぶ有力大名です。

政宗最大の勝利と呼ばれる「摺上原の戦い(スリアゲハラ)」へと発展。
政宗は同戦で敗北した蘆名家を滅亡させるに至りました。

「私闘禁止」の世の中で各方面で領土拡大の戦をした伊達家。
気づけば当時の東北地方にて最大領域を持つ大名家になります。

全国でも屈指の国力を誇る伊達家は、豊臣家から再三の警告を受けていました。

政宗は警告をのらりくらりとかわすものの遂には逃れられなくなります。

政宗の小田原参陣

中央の支配者である秀吉は伊達に恭順するように命じます。

豊臣家は伊達家と同じく抗っていた北条家を始末しに動きます。
16万の兵力で小田原征伐を始めました。

政宗は秀吉より小田原参陣を命じられます。
小田原参陣か豊臣家との戦争か政宗の前には究極の2択が迫ります。

政宗は北条との関係を反故にして、小田原参陣を決めます。

「中央権力の豊臣家と戦争しても勝ち目はない」と読みました。
小田原参陣の末、伊達家は会津を没収されます。
それでも、72万石の所領安堵に成功します。

徳川幕府での政宗

秀吉が亡くなると、伊達家は徳川陣営に入ります。

関ヶ原の戦いでは慶長出羽合戦に参加。
積極的な武力行使はしていませんが、戦後は62万石を獲得しています。

徳川政権では仙台藩を築き、政宗は初代藩主に就きます。
62万石は全国3位の石高です(加賀・薩摩に次ぐ)。

政宗の晩年

政宗は江戸の世になると領国の発展に注力。
運河開発、徳川将軍の指南役も務めます。

エスパーニャ(スペイン)との交流にも精を出しました。

スペイン、メキシコ、ローマへと慶長遣欧使節を送りました。
国際交流という点でも政宗のスケールの大きさが分かります。

大坂の陣では後藤基次と死闘を繰り広げ討伐。
味方の水野勝成と内輪揉めするなど血気盛んぶりは健在でした。

その後の伊達家

政宗は徳川将軍3代に仕えます。

家康、秀忠、家光に仕えて、特に家光には慕われていました。
家光期には歴戦の猛者として、一目置かれる存在でした。

そんな政宗も寿命を全うして、家督は次男の伊達忠宗(1600-1658)が引き継ぎました。
忠宗も内政に長けた君主で仙台藩は盤石の藩運営を果たしました。

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