たいそん君の投資ブログ始めました!

羽後国のカリスマ大名・安東家【戦国絵巻】

戦国絵巻東北編

日本全国で大名が凌ぎを削った戦国時代。
次々新たな勢力が台頭し、群雄割拠の時代に突入しました。

戦国大名はそれぞれのドラマを持ち栄枯盛衰の世を送りました。
それぞれの戦国絵巻を覗くことでそこにあるドラマを紐解いていきます。

今回は羽後国の戦国大名である「安東家」です。
安東家は南部と切磋琢磨した本州最北の戦国大名です。

今回は「安東舜季→安東愛季→秋田実季」までを振り返っていきます。

安東家の出発点

安東家と戦国時代

戦国時代に入ると羽後国でも動きがあります。
安東家はかねてから、羽後、津軽、蝦夷などに支配を広げる家でした。

家中は檜山安東家と湊安東家に分かれていました。
7代目檜山安東家当主の安東舜季(1514-1553)は安東家統一へ乗り出します。

第一次湊騒動と呼ばれる内乱が起こります。
主に湊城を中心に行われた抗争でした。

舜季は家内対立の傍ら、蝦夷の蠣崎家支配を強化します。
アイヌと蠣崎の争いを調停に入るなど積極的に蝦夷地へ介入しました。

舜季と湊安東家

湊騒動の中、舜季は湊家から正室を迎えました。
争いが続く湊家の姫君を迎えたことで争いは沈静化していきました。

安東家のカリスマ現る

舜季の跡を継いだのが安東愛季です。
愛季は檜山安東8代当主として、安東家を東北を代表する戦国大名へ押し上げます。

愛季はまず安東家への統一を果たします。
血筋が絶え絶えであった湊安東家を巧みに吸収合併し取り込みました。

その他では有力な国人衆であった浅利氏を討伐するなど支配領域を広げていきます。

商業では河川交易、蝦夷地貿易を盛んに切り盛りします。
港を改修して、東北地方随一の港湾都市を築きます。

愛季は外交でも中央権力と親密度を上げます。
織田家、豊臣家に通じて、所領安堵に繋げています。

愛季の晩年から安東家改めて秋田家と名乗ります。

斗星の北天に在るにさも似たり

愛季の活躍ぶりはルイス・フロイスも認めています。
「斗星の北天に在るにさも似たり」と愛季の智勇を評しています。

湊騒動決着

秋田実季

愛季が亡くなると家督は次男の秋田実季(1576-1660)が継ぎます。
実季が家督を継いだのは12歳でした。

愛季という剛腕がいなくなった家中は支持基盤が揺らぎます。
この動揺を湊安東家再興の動きに結びつけたのが豊島通季です。

通季は湊家の流れを汲み、内乱を起こします。
第一次から続く湊騒動の第三次にあたります。

第三次の騒動は「湊合戦」とも呼ばれます。

湊合戦

湊合戦は旧檜山安東家と旧安東家の競り合いです。
湊家側は隣国の南部、戸沢、小野寺と手を結び、戦況を優位に進めます。

湊家側は秋田勢を圧倒して、檜山城へ押し込みます。
秋田家は檜山城での籠城戦を強いられます。

秋田家は5か月にも及ぶ籠城戦を僅かの武器で乗り切りました。
その後、国人衆である由利十二頭(12の勢力)が秋田家へ参戦をし、一気に押しのけます。

湊家、戸沢、小野寺を次々と撃退し、湊家再興の動きを潰します。

秋田家のその後

惣無事令違反

湊合戦は惣無事令違反として、審議に掛けられます。
しかし、愛季からの中央への親交がいき、お咎めなしに終わります。

これは石田三成への工作が裏であったと言われています。
秋田家は所領安堵も勝ち得て、地盤の羽後国での支配を認められました。

一方で、奥州仕置、朝鮮出兵などに兵を駆り出されるなどの使役は発生しました。

関ケ原以後

秀吉が亡くなると家康に近づき、関ケ原は東軍につきます。
会津征伐では上杉軍と戦う予定でしたが、味方の最上義光に悪評を入れられ働きを評価されませんでした。

以降、常陸国への転封され、宍戸藩として改めました。
秋田実季は晩年、蟄居させられるなど不遇の身でした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です