20世紀最凶の独裁者・ポル・ポトをまとめる

世界史

いつの時代も独裁者の存在は必ず出現します。
20世紀も数多くの独裁者を生んだ時代です。

一部では凄惨な歴史を遺しています。
「独裁者=悪」ではありませんが、大量虐殺を生む元凶になることが多いです。

今回触れる独裁者は20世紀を代表する独裁者のポル・ポト。
ポル・ポトの凶悪度はヒトラー・スターリン・毛沢東に並びます。

凶悪度の割に知名度の低いポル・ポトの凶行、及びカンボジアの歴史をまとめます。

動乱のカンボジアとポル・ポト登場

シアヌーク殿下とカンボジア

戦後、カンボジアの国家元首を担ったのはシアヌーク国王です。
カンボジア国内は共産勢力が力を強めていました。

シアヌーク国王は国家の共産化を危惧します。
国王の座を父親に譲り、自らが殿下の立場で政治活動を指揮します。

シアヌーク殿下は反共体制ながら西側陣営の傀儡となることも避ける政治姿勢を取ります。
東西陣営の狭間に揺れるカンボジア情勢を上手く舵を取っていたシアヌーク殿下。

シアヌーク殿下の姿勢に腹を立てたのがベトナム戦争を戦っていたアメリカでした。
アメリカは、北ベトナム(共産勢力)の軍事行動を黙認していたシアヌーク殿下を「容共主義者」とみなし、シアヌーク殿下を打倒します。

CIAは新たな親米政権を誕生させ、シアヌーク殿下は中国へ逃亡します。

カンボジア民族統一戦線

シアヌーク殿下は反共体制を敷いていました。
ですが、カンボジアが西側陣営に奪われたため、国家奪還のために共産勢力と手を結びます。

不倶戴天の敵であるポル・ポトの力を借りるしかありませんでした。

敵の敵は味方ということでカンボジア国内の共産勢力との間に「カンボジア民族統一戦線」を結成。
シアヌーク殿下は米政権の打倒を目指し、祖国凱旋。

民族闘争を実際に指揮したのがポル・ポトです。
ポル・ポトが指揮したクメール・ルージュ(極左過激派)は戦闘によりプノンペンを奪還します。

親米政権はベトナム戦争で敗戦濃厚であったアメリカの後ろ盾をなくし、敗北します。
ポル・ポト陣営の勝利によりベトナムとカンボジアが相次いで共産化することになりました。

ポル・ポトの出自

ポル・ポトは本名をサロット・サルと言います。
生家は裕福な自作農で王宮との関係も一部でありました。

青年時代は渡仏し、そこで共産主義に傾倒します。
スターリンの手腕にもひきつけられていました。

ポル・ポトはカンボジアに帰国すると共産主義者としての活動を始めます。

その後、ポル・ポトはアジアの共産主義国家を渡り、カンボジア共産党(クメール・ルージュ)を指揮。
クメール・ルージュの武装組織はポル・ポト派として知られています。

ポル・ポトの凶行

常軌を逸した凶行政策

ポル・ポトは親米の傀儡政権を倒すと自身が指導者としてカンボジアに居座ります。

まずは旧政権の関係者を全員処刑にします。
同時期に統一されたベトナムでは関係者の処刑はありませんでした。
ここからもポル・ポトの狂気が伺えます。

ポル・ポトはプノンペンに居住していた住民を全て地方の農村へ追放します。
敵対勢力の排除と農村での労働力確保を強制的に実行します。

プノンペン住民はこの命令に逆らえば即刻、射殺されました。

親米政権を倒すために手を結んだシアヌーク殿下は王宮に幽閉されます。
共産主義を敵視していたシアヌーク殿下の出る幕はなくなります。

原始共産制

ポル・ポトは独裁者の座につくと「原始共産制」を唱えます。
原始共産制は共産主義の一派です。

想像し得る原始社会を理想として、狩猟採集社会に回帰する思想です。
人間の1歩ずつの歩みを全て否定します。

ポル・ポトは強硬的に原始共産制を推し進めました。
通貨を廃止、工場を廃止、宗教廃止(寺院破壊)と乱暴な政策を展開。

国民は知識を持つことを禁止され、全てのリソースを農業生産に従事させられます。
「コメの生産が命ですが、合理性は排除、情熱があれば何事も成功する」という毛沢東方式を導入し、悉く失敗します。

知識人狩り

ポル・ポトの凶行は留まることを知りません。
「知識=現代的」とみなされ、知識人を排除する運動がおきます。

これが俗に言うポル・ポトの知識人狩りです。

教師、医者、仕業、富裕層など知識を有する職業に就くものを片っ端から処刑します。
学校は知識人の養成所とみなされ、廃止されます。

終いには眼鏡をかける人が知識人、文字を読めるのは知識人を全て処刑します。

人口の1/3が処刑

ポル・ポト政権下の凶行は徹底した言論統制により外部に漏れ伝うことはありませんでした。
外部からジャーナリストが入ってこれば、すぐさま処刑されていしまいます。

文字の読み書きできる国内の知識人は処刑されているので、全国民がポル・ポトの洗脳下に置かれていました。

このカンボジアの現状を打破したのが隣国のベトナムでした。
同じ社会主義陣営であったベトナムとカンボジアですが関係は悪く、ベトナム軍によるカンボジアへの侵攻が始まります。

ベトナム軍がカンボジアに侵攻すると国内の至る所で死臭発生していました。
カンボジアはまともな戦闘も出来るはずもなく、ポル・ポトは失脚し、山奥へ逃げ込みます。

ベトナムの人道的介入により、ポル・ポトの凶行が明るみ出ました。

処刑を待つ人々の大量の顔写真が並び、その犠牲者は少なくとも100万人以上。
当時、600万人以上いた国民の1/3は処刑されたとも言われています。

その後

その後、ポルポトはカンボジアの山奥でポル・ポト派の残党とゲリラ活動を繰り返します。
最後は病死説、暗殺説ありますが、独裁者としてはひっそりと死去しました。

そこからのカンボジアの復興は至難でした。
教員もいない、教員を育てる機関もないため、教育水準が上がりません。

知識人狩りを行ったことで現代社会と確立した時を過ごすことになります。

「自らの正義を貫いた結果、平時から大量虐殺」というのが独裁者の典型的な失敗例です。
掲げる正義は人それぞれですが、ポル・ポトの正義は少なくとも大量殺戮を要するもの。

因みにポル・ポト派の幹部の公用車はベンツだったそうな

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