人生を歴史人物っぽく振り返る!

こんちゃわっす!

今回は自分の人生を歴史人物のように振返ります!
これまでの自分に起きた出来事を適当な歴史用語に変換して自己紹介します。

僕の人生は大体がここに凝縮されています。
プロフィールと思って頂ければ幸いです。

長丁場ですので、気軽に行きましょう!

たいそん生誕

畜生丸の幼少期

平成4年、尾張国の商人の嫡男として、産声。
生母は土岐の豪族の娘、姉弟は三つ上に姉がいました。

たいそんは、幼名を畜生丸と称す。
(幼少期、目についたアリを片っ端から踏み殺しまくったことからが由来)

畜生丸は生母の教育の下、洋琴(ピアノ)・絵画など芸術の英才教育を受けます。
しかし、畜生丸は洋琴・絵画ともに決定的に不得手でした。

洋琴の発表会では6歳で登壇。
同じく発表会に参加していた女の子を口説き、生母より叱咤されます。

力を入れ、指導された洋琴も全く上達することのなかった畜生丸。
彼は師事していた洋琴の目付役(ピアノの先生)を一方的に非難する愚行に出ます。

終いには、自ら洋琴の道を断つ、「洋琴の乱」を起こしました。
→ピアノを辞める

絵画の鍛錬所では畜生丸が猛烈な画力の乏しさを発揮。
畜生丸は鍛錬所からの破門を告げられます。

幼くして、芸術の道を絶たれた畜生丸。
彼は、芸術の道を半ばで諦め、野球・蹴球などの武道に励むようになります。

初等学問所(小学校)での畜生丸

神童、現る

芸術の道を絶たれた畜生丸たが、学問は道が開けていました。
畜生丸と同じく尾張出身、日本近代小説の始祖である「二葉亭四迷の再来」と称される程の神童でした。

初等学問所(小学校)の側用人(教員)からは「学問・武道ととも常人ならざる才を持つ。しかし、どこか暗雲低迷な様子である」と評されていました。

→畜生丸の暗い影の部分を側用人は指摘

畜生騒乱

学問・武道に秀でた畜生丸は初等学問所の制圧に乗り出します。
初等学問所の後年では圧倒的知略と巧みな人心掌握術を用いて、初等学問所最大派閥である畜生軍団を結成。

畜生丸は軍団の棟梁を名乗ります。

畜生軍団の構成人数は10数名にも及び、軍団結成以降、学問所内で連日のように騒ぎ立てました。
これは後に「畜生騒乱」といわれています。

畜生丸は「鬼遊戯(鬼ごっこ)」での鬼免除。
草野球軍団では総大将(総監督)として、軍団を指揮しました

中等学問所(中学校)での畜生丸

ヒエラルキーの低下

初等学問所で栄華を極めた畜生丸。
しかし、中等学問所(中学校)に進駐すると地位が没落します。

他の初等学問所から進駐してきた大名との小競合いに敗れます。
畜生丸は、大名から一介の武士へと転落してしまいます。

それでも、中等学問所における士農工商のヒエラルキーでは、武士の位に留まりました。

畜生丸は、学問所での振舞いをこれまでのものから転換させます。
巧みな人心掌握術が通用しなくなり、自らが道化を演じることで人気獲得を企みました。

それにより、中等学問所の大名(友達)から気に入られるという道を切り開きました。

蹴球の探究

畜生丸は、中等学問所に入ると、武道の道を探求します。
中でも蹴球には、かなり力を入れました。

当初、畜生丸の所属する蹴球軍(サッカー部)は弱小勢力。
しかし、畜生丸をはじめとする畜生軍団である同門の武士は研鑽を重ねます。

結果、尾張・三河統一杯(県大会)でも覇権を争う大国へと発展します。

一方で、神童とまで讃えられていた学問は次第に、衰えをみせます。
父の怒りを買い、一族破門、寸前となり渦中で冷遇されました。

哲人(てつんちゅ)への改称

畜生丸は高等学問所(高校)に進駐するにあたり改称します。
畜生丸から哲人(てつんちゅ)へと改称。

これは、畜生丸たっての希望でした。
当時「なぜ生きるのか?」という禅問答を毎日のように、繰り返していた畜生丸。
彼は、出家の道も考えていました。

しかし、父の説得を受け、高等学問所への進駐を決めます。
そこで、禅問答への答えとして、哲人と名乗ることを父に説き伏せ、改称。

高等学問所での哲人

更なる降格

高等学問所(高校)には、尾張・知多・三河の各地から大名クラスの勢力が集中。

高等学問所での哲人は、勢力争いに連戦連敗を繰り返します。
哲人でのヒエラルキーは、武士から商人へと地位が下がってしまいます。

蹴球の面でも、高等学問所の蹴球軍は屈強な精鋭が揃っていました。
蹴球でも目立った活躍を残せず、散々な高等所生活でした。

女色に耽る

この頃の哲人は、高等学問所での地位の低さや武道(蹴球)で上手くいかないことから、女遊びに奔走。

高等学問所の側用人からは「哲人は、女難の相が出ている」と言われる程の奔放振りでした。
この頃の哲人は正室に飽き足らず、側室を何人も作っていました。

具体的な哲人の愚行は「大型家具店の寝具で、逢瀬を交わそうとする」、「十数人の女と毎夜、恋文を送り交わす」、「西洋の創造主の生誕祭(クリスマス)に、わざと正室に別れを告げる」。
まさに最低の人間でした。

そのお陰で、高等学問所内外で、哲人の悪い評判が飛び交います。
哲人の地位は、卒業時には地に落ちていきました。

学業復古の大号令

高等学問所での、哲人は女色に耽るばかりで、学問も武道も低調。

これに、激怒したのが、父であった。
「哲人よ、そのような体たらくでは、貴様には一銭たりとも寄与せんぞ」と父は学問所(大学)進駐を拒否。

流石の哲人もこの頃には、女遊びに飽きていて、「学問所(大学)へは進駐したいなー」と鼻をほじほじしながら、ぼんやりと自分の将来を案じていた。

その後、学問へ身を注ぐことを決心した哲人であったが、高等学問所にて、勉学を疎かにしていた哲人の成績は酷く低迷していた。

そこで、心機一転した哲人は、「学業復古の大号令」をかけるのであった。

哲人は、学業復古の大号令の下、高等学問所だけでは飽き足らず、学問鍛錬所(予備校)にも足繫く通うようになる。

 

神童の復活

女遊びから一転、学問へ身を捧げた哲人は、寝食を忘れ勉学に励む。

すると、模擬学問戦争(模試)の成績は、軒並みA判定を記録する。
得意とした日本史では全国に名を轟かせた。

まさに、畜生丸時代の神童ぶりを彷彿とさせる活躍を見せた。

この成果に父の知多守も大喜びで、諸手を挙げて、『一芸に熟達せよ 多芸を欲張るものは巧みならず』と長宗我部元親公の言葉を借り、哲人を褒め称えた。

 

学問中央一斉戦争(センター試験)の惨敗

模擬学問戦争では連戦連勝を繰り広げた哲人であったが、本番となる学問中央一斉戦争(センター試験)を前に極度の不振に陥る。

不振のまま学問中央一斉戦争を迎え、結果、哲人は無残にも散ってしまう。

学問中央一斉戦争の失敗により、憧れの江戸の学問所に進むことを諦めた。
哲人は、地元尾張の学問所(大学)へ通うこととなった。

 

学問所(大学)での哲人

自由を謳歌する哲人

哲人は無事学問所(大学)への進駐を果たす。
それでも、学問所では、学問に励むことなく、相変わらず「なぜ人は生きるのか?」という禅問答を繰り返していた。

一方で、学問所での生活は、かつての畜生軍団を再結成させ、自由に毎晩遊び歩いた。

また、「自宅居住の禁令」の発布により、ほとんどの時間を自宅の外で活動した。
鮨屋での奉公で、俸禄を稼ぎ、遊楽街で散財するという放蕩暮らしを送っていた。

 

哲人法度之次第の制定

この頃、学問所に通う傍らで、哲人は分国法の制定をした。
その名も「哲人法度之次第(てつんちゅはっとのしだい)」という法律であった。

以下条文を記す

  • 「自宅居住の禁令」を解き、在宅を推奨する
  • なるべく独りの時間を多く増やし、その時間を禅問答に費やす
  • 交際関係は限度を保ち、他者との関わりを減らす
  • 自己の内面を見つめ直すこと

「哲人法度之次第」を要約すると、「なるべく独りで禅問答をしろ」というものである。

「哲人法度之次第」によって、学問所での生活は一変し、質素倹約なものとなった。

 

父と姉の島流しによる静謐

父、知多守幽斎と姉の千姫はこの頃、自宅のある尾張から島流しにあっていた。

父は沖縄へ島流し(単身赴任)、姉は異国の地へ島流し(海外留学)にあったので、自宅はとても静かになり、哲人は心地よく禅問答を繰り返す。

こうして、哲人は学問所での生活(大学生活)を独りで禅問答に捧げるのであった。

ココまでのまとめ
  • 幼少期の名前は畜生丸
    →幼少期は神童として、学問・武勇に優れていた
    →芸術は全くセンスがなかった。洋琴の乱
  • 初等学問所では、巧みな人心掌握術によって、大名に上り詰める
    →畜生騒乱
  • 中等学問所のヒエラルキーは一介の武士になる
  • 高等学問所に入るタイミングにて、畜生丸から哲人に改称する
    →この頃より禅問答に励む
  • 学問所(大学)では自由を謳歌
    →「哲人法度之次第」の制定により、禅問答に励む

 

 

それでは、激動の歴史である社会人編へと突入したいと思います!
しばしお付き合いお願い申し上げま候!

 

哲人の幕末(大学卒業)

新卒衆の一向一揆(就活)

学問所での生活を、他者と交わることなく、禅問答を繰り返していた哲人。
そうこうしているうちに、学問所での生活を終えようとしていた。

その頃になると、新卒衆の一向一揆(就職活動)が世の中では騒がしく動いており、哲人もその一揆に加わることになる。

周りの新卒衆が平成文化に興じるなか、禅問答しか繰り返していない哲人は一向一揆(就活)に苦戦する。

敵国(企業)への侵攻がなかなか上手くいかない哲人は、「哲人の改革」を施すことを決定する。

 

哲人の改革

新卒衆の一向一揆の成功のために、「哲人の改革」を実施する。
「哲人の改革」により、以下の治世が決まった。

哲人の改革
  • 片っ端から俸禄の高い敵国を侵略(選考を受ける)する
  • さも文化人のように偽る(学生時代打ち込んだことを捏造する)
    →千利休や松尾芭蕉のような振舞いをする
  • 二枚舌外交により、敵国の下級武士(一次面接)を攻略する
  • 賄賂や汚職(企業にいい人材だと誇張する)によって、敵国の上級武士(最終面接)を攻略する

このような「哲人の改革」は予想以上の功を奏した。
「哲人の改革」によって、哲人は敵国の攻略に成功していく。(内定をもらう)

 

新卒衆の一向一揆の成功

「哲人の改革」により、新卒衆の一向一揆(就活)は成功を治める。

主な戦果としては、株仲間組合(証券会社)を三カ国(3企業)、財閥(商社)を1か国攻略(内定)を治めた。

新卒衆の一向一揆の成功に気をよくした哲人。

この頃の哲人は、かの藤原道長公に想いを馳せ、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば(この世は俺のもんだ)」と毎夜、歌っていた。

 

幕末(大学卒業)

こうして、無事、新卒衆の一向一揆を成功を治めた哲人は、財閥への進駐を決めた。

進駐を決めた哲人は、坂本龍馬や西郷隆盛、勝海舟などの幕末の志士とともに「日本の夜明けぜよ」と息巻いていた。

一方で、奉公先の奉行所(就職する会社)からは、江戸へ参勤交代(東京配属)せよとの沙汰が哲人の下に届く。

哲人は人生で初めて、尾張の国下を離れ、江戸での奉公をすることになる。

哲人は、かねてより、江戸への憧れを持っていたため、この参勤交代(異動辞令)をとても喜んた。

 

維新(就職)→いざ江戸へ

奉公先(就職先)での退屈な日々

晴れて江戸へと領土を移した哲人であったが、奉行所での奉公は大変退屈であった。
意地の悪い老中(管理職)や性根の腐った奉行人(先輩社員)に囲まれて、非常に鬱屈とした日々を過ごした。

また、江戸の町の賑わいも哲人にとっては、煩わしかった。
特に、西洋からもたらされた鉄道駅の人混みは、哲人を辟易させた。

それほどに江戸の街は文明開化の鐘が鳴っていた。

 

盟友・吉臣鎌足との出会い

この頃、哲人は盟友の吉冨鎌足(よしとみのかまたり)と出会う。

江戸の旅籠屋(居酒屋)で共通の知人を介して鎌足と出会ったが、この出会いが後に歴史を揺るがす大事件に繋がるのである。

鎌足の特徴を簡単に述べておくと、文武に秀でた逸材で、当時の冠位十二階の制度では、一番位の高い紫色の冠位を承っていた(とてもエリートな人材)。

また、出身は越前であるのに、鎌足は、なにわ言葉(関西弁)を用いていた。
容姿は中肉中背で、愛嬌のある顔であった。

哲人は、鎌足のカリスマ性に心酔した
鎌足は哲人のことを「なんやら、面白い奴やのう。いっちょ手ぇ貸したるわいな」と慣れない江戸での生活に気を掛けてくれた。

哲人は、江戸という異国の地で、初めて出来た盟友をとても大切に思った。

 

鎌哲起業同盟締結

鎌足は、既存の幕政(一般企業)に不満を抱え、「わいなら、もっと活気のある世の中を作り出せるんや。幕政は芸術や」と新幕府創設(起業)を語っていた。

鎌足は江戸にて自分の幕府を開くこと(起業)を野望としていた。(以下鎌足の野望)
「わいの幕府は面白くなるでぇ」と鎌足の野望について毎夜、魅力的に語っていた。

鎌足の野望は、非常によくできた方策であった。
哲人も鎌足の野望に幕閣として参画したいという想いを抱いていた。

鎌足の思想に影響を受ける哲人は、鎌足の幕府に老中として、参画させてもらうことを頼み込んで、鎌足もそれを許していた。

ここに、「鎌哲起業同盟」としてが締結されたのであった。

 

哲人からうつ太郎への改称

天より新たな名前を賜る

哲人はこの頃、新たな名前を偏諱を賜ることになる。

その名も「双極亭うつ太郎」であった。
これは、1年後に発覚するのだが、哲人は、この頃から「双極性障害」という病を患う。

1年後、町医(医者)による診断をうけ正式に「双極亭うつ太郎」の名前を授かるのだが、便宜上ここからはうつ太郎という表記に代わる。

うつ太郎は、戒律の厳しいことでしられる流派である、双極亭の一門に身をおくことになる。

たいそんの名前変遷
畜生丸→哲人(てつんちゅ)→双極亭うつ太郎

 

天下分け目の高円寺の合戦(退職~起業まで)

江戸でのうつ太郎の生活は、丁稚奉公であった。
公先(就職先)で受ける恥辱への憤りは日に日に増していく。

それでも、鎌足の野望に想いを馳せることで、退屈な丁稚奉公を続けていた。

しかし、思い人(恋人)からの破局申請や悪代官(職場の先輩)による陰湿ないじめにうつ太郎の憤りはついに頂点に達する。

そして、うつ太郎は、ついに奉公先を辞めることを決断した。

そして、奉公先を辞めるにあたって、鎌足との約束を反故にし、自分で新たな幕府(会社)を開くのである(起業)。
→天下分け目の高円寺の合戦(高円寺で起業した)である。

うつ太郎は、手勢1名を従えて、奉公先のあった池袋から新拠点を高円寺に移す。
ここから、壮大な合戦が幕を開けるのである(起業生活が幕を開ける)。

ココまでのまとめ
  • 哲人の改革により新卒衆の一向一揆(就活)は上手くいく
  • 財閥(商社)を奉公先に決め(入社)、江戸に参勤交代する(東京配属となる)
    →奉公先はとても退屈
  • 吉冨鎌足と出会う、鎌哲起業同盟締結
    →鎌足の野望により新しい幕府を開くことを決意(鎌足と起業することを約束)
  • 哲人(てつんちゅ)から双極亭うつ太郎と改称
    →後に町医(医者)から「双極性障害」と診断される
  • 鎌足との同盟を反故し、新幕府を開く(起業する)

 

熾烈を極める高円寺の合戦(起業生活)

孤軍奮闘のうつ太郎

高円寺の合戦により、哲人は双極亭うつ太郎に改称する。

当初、鎌足との間に新幕府(起業)を開こうと同盟を敷いていたうつ太郎であったが、その同盟を反故にして、勝手に幕府を設立することになる。

このときの双極亭の流派は、躁状態であり、周りの諫言も振り切り幕府を創設するに至った(起業した)。

 

劣勢傾く高円寺の合戦

うつ太郎は手勢のヒッソリーニ(ヒトラーとムッソリーニをたした男)1人を従えて、高円寺の合戦を奮戦していたが、戦局は思わしくない方向へ流れていた。

うつ太郎は、尾張国の盟友より、年貢の借上げ(借金)をしながら、合戦を続けた。
手勢のヒッソリーニも口では勇猛果敢なことを語ったが、実際の戦局(営業活動)では、全く使い物にならず、この頃の幕政は困難を極める。

 

中臣鎌足による摂関政治

吉冨鎌足の政権介入

日に日に高円寺の合戦での戦局が悪化していくうつ太郎軍であったが、そのうつ太郎軍を救う存在が現れた。
それが、かつての同盟相手、吉冨鎌足である。

鎌足は、文武にとても優れていて、戦場での活躍も「武は関羽雲長の如く、知は諸葛孔明の如し」と評される程の逸材であった。

そんな鎌足援軍により、高円寺の合戦でのうつ太郎軍は、徐々に形成を建て直す。(売上が上がり始める)

 

鎌足の荘園整理令

うつ太郎は、同盟相手である鎌足のことを、軍神の如く奉っていた。

この頃になると、高円寺の合戦において、実権は完全に鎌足の手に渡っていた。
軍神、鎌足主導の下、諸大名(起業家)たちとの会談が進んでいき、うつ太郎軍は急速に戦場を拡大していくことになる。

これが鎌足による荘園整理令である。
この荘園整理令によって、うつ太郎軍の軍備(売上)は拡張し、幕政は安定していく。

まさに高円寺の合戦は鎌足の独壇場となっていた。

 

うつ太郎の失脚

高円寺の火薬庫

この頃のうつ太郎は、鎌足の摂関政治の中で、日々ストレスを溜め込んでいた。
鎌足の期待に応えたいという承認欲求や、ヒッソリーニの存在がうつ太郎のストレスを増長させた。

双極亭の流派も躁状態のガスが充満をしている状態で、いつ躁状態が爆発するかもしれないという危険な状態であった。

鎌足の摂関政治下におけるうつ太郎は、「高円寺の火薬庫」と呼ばれるほど、いつ着火してもおかしくない程の不安定な精神状態に陥っていた。

 

代々木の茶会打ちこわし騒動

6月の良く晴れたある日、代々木にて伝統的な茶会が開かれた。
参加者は、うつ太郎をはじめ、ヒッソリーニ、吉冨鎌足、その他鎌足の同盟相手(友達)数名で開かれた。

その茶会(飲酒)にて、うつ太郎は募ったストレスを爆発させて、大暴走を繰り広げられる。
鎌足の、同盟相手を罵倒し、その矛先は鎌足に対しても向けられた。

まさに「高円寺の火薬庫」に着火し、大爆発をもたらしたのであった。

このうつ太郎の大暴走により、鎌足は愛想を尽かして、うつ太郎との同盟を解消し、鎌足はうつ太郎軍から姿を消した。

 

うつ太郎の大恐慌(うつ状態)

軍神であり、盟友であり、心の支えであった鎌足を失ったうつ太郎は、大恐慌に陥ることになった。

うつ太郎は、めっきり奉公(仕事)に精が出なくなり、鎌足を失ったうつ太郎軍は、高円寺の合戦にて、たちまち旗色が悪くなっていく。

旗色が悪くなると、唯一の手勢であったヒッソリーニが、うつ太郎に対して、ファシズム口撃を繰り返した。

ヒッソリーニのファシズム口撃に、うつ太郎の精神状態は遂に崩壊し、「高円寺の合戦」は「総大将討ち死に」により、遂に敗北がきまった。

 

うつ太郎の江戸追放

鎌足を失い、「高円寺の合戦」に敗れたうつ太郎は、ヒッソリーニに全権を委任して、江戸を去ることを決めた。

精神崩壊(抑うつ状態)した、うつ太郎は、尾張の国へ改易となる。

その後、うつ太郎は、地元である尾張の国にて、長期間の抑うつ政治を過ごすことになる。

うつ太郎からたいそんへ

天賦人権思想

尾張の国で、長期間の抑うつ政治(うつ状態)をしていたうつ太郎は、学問所時代(大学時代)のような生活に戻り、長い時間を禅問答に充てた。

その後、うつ太郎は、天賦人権思想(人間は生まれながらにして自由平等で幸福を求める権利がある)を打ち出して、再び、職を得るために、一向一揆(就職活動)を始める。

 

ええじゃないか運動(躁状態)

幕府を開いた国主から庶民へと格下げされ、四民平等令を受けたうつ太郎は、庶民として、再度、一向一揆(就職活動)へ挑む。

なんとか、一向一揆の成功(内定)を治めるものの、双極亭の流派はかなり厳しいもので、再度、激しいうつ状態に陥ることになった。

1年間にて、躁状態とうつ状態の双方を繰り返し、うつ太郎の精神衛生は、劣悪なものになっていた。

うつ状態のうつ太郎を見かねた、生母と姉により、町医の下へ担ぎ込まれ、そこにて正式に双極亭うつ太郎(双極性障害)という診断がなされた。

 

双極亭うつ太郎からたいそんへの改称

こうして、新たな奉公先でも病気の影響が出て、長期療養に入ったうつ太郎は、改称することを決意する。

うつ太郎は、「高円寺の合戦」で、焼け野原となり、自身の心身をGHQ(great help question)の介入によって(GHQは禅問答を発展させたもの)、双極亭と向き合うことを決める。

そして、双極亭と向き合うことの一環として、うつ太郎という名を返納し、新たに「たいそん」と名乗ることを決まった。

これは、禅問答を始めた、中等学問所(中学校)の頃のあだ名から取ったものである。

中等学問所(中学校)の頃、世界陸上という飛脚の大会が、大坂にて開かれていた。
そこに出場していた米国の「タイソン・ゲイ」という選手と当人が似ていることから、当人はタイソンと呼ばれていた。

たいそんの五箇条の御誓文

最後に、たいそんの五箇条の御誓文を記して、現在までの我が人生の振り返りを終わろうと思う。

  1. たいそんは、文化的な幸せを享受し、その幸せをメディアを通じて発信する
  2. たいそんは、知的好奇心を満たし続ける
  3. たいそんは、師を老子とし、「道(タオ)」を追求する
  4. たいそんは、障壁と向き合い、共に歩んでいく
  5. たいそんは、我が人生の遺物を後世に残す

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