アメリカ人種差別へのターニングポイント「公民権運動」

アメリカの銃社会

アメリカは世界で最も影響力のある国家です。
人口は3億2千万人を超え、人種は世界で最も複雑な構成。

移民で成立した多民族国家のため、人種・民族は様々。
言語・信教はバラエティに富みます。

多民族国家アメリカでは1960年代頃までマジョリティによる支配がありました。
白人がマイノリティである有色人種を排他してきた負の歴史です。

「公民権運動」は黒人を中心としたマイノリティが個人の権利保障を訴えた運動です。
有名なキング牧師が活躍し、人種差別撤廃への道筋を作りました。

アメリカ史の中でも大きなターニングポイントが「公民権運動」です。
公民権とは政治に参加する権利を指します。

アメリカの人種差別の背景

黒人(アフリカ系アメリカ人)の出自

アメリカには多くのアフリカ系アメリカ人がいます。

アフリカ系アメリカ人は16世紀頃から19世紀の奴隷貿易によって海を渡りました。
1860年には確認されるだけで400万人の奴隷黒人が存在。

白人は奴隷を購入して、プランテーション経済を営みます。
奴隷を保有して大規模農業を営むことで南部州は経済発展していました。

当時、先進国であったイギリスやフランスと貿易を行うまでに南部州は奴隷ビジネスを成功させます。

奴隷解放と人種差別

アメリカ南北戦争にて、エイブラハム・リンカーンは奴隷解放を宣言します。
南北戦争に勝利した北部州は南部の奴隷制度にメスを入れました。

南北戦争後、アメリカ合衆国憲法修正第13条で奴隷制度の撤廃が明記されました。
形式的には奴隷解放と共にアフリカ系アメリカ人にも一部公民権が認められました。

しかし、実質的には人種差別はその後も横行します。
南部州では人種隔離を合法的に進めます。

分離すれど平等

公共施設の白人・黒人の区別される社会に連邦最高裁判所は「分離すれど平等」と下します。
「黒人専用施設でも白人専用と同じ機能を有すれば平等であろう」という解釈です。

これが当時のアメリカの人種差別に対する姿勢。
結果、人種差別を容認する社会形成に繋がりました。

このように奴隷解放後も有色人種に対する社会の風当たりは辛く、白人による差別は続きました。

公民権運動に影響を与えた3つの事件

ブラウン判決

リンカーンの奴隷解放を宣言後も有色人種への差別は続きます。
1950年からマイノリティは個人の権利を訴える運動を加速させます。

まずはブラウン判決。
ブラウン判決では長らくアメリカに定着した人種隔離への法的解釈に一石を投じました。

ブラウン判決(人種隔離違憲判決)は1954年に連邦最高裁判所が下した判決です。
「州内で取られた白人と黒人の教育隔離政策は違憲である」と判決しました。

これにより、公共施設の白人・黒人の区別される社会。
いわゆる「分離すれど平等」は違憲という解釈へ変更されました。

この法的解釈の変更から人種差別撤廃への動きだします。

モンドゴメリー バス・ボイコット事件

1955年アラバマ州モンドゴメリーで黒人によるバスボイコット事件が発生します。
このボイコット事件が実質的に公民権運動へ繋がります。

事件はモンドゴメリーの市営バズで発生。

白人専用席に黒人女性(ローザ・パークス)が着座すると、運転手が離席するように命じます。
ローザは運転手の命令に背くと警察に逮捕されるという事案でした。

この理不尽な逮捕に黒人は声を上げます。
キング牧師が登場して、黒人のバス乗車をボイコットします。

黒人の乗車で成り立ったていた市営バスは打撃を受けます。
ボイコット運動は功を奏します。

連邦最高裁判所はモンドゴメリーの人種隔離政策を違憲としました。

ワシントン大行進

バスボイコット事件後も有色人種による公民権運動は続きます。
公民権運動のピークとされるのが1963年の「ワシントン大行進」です。

首都ワシントンに20万人~30万人規模の政治集会を開きます。
リンカーンの奴隷解放宣言から100年、公民権運動はピークに達します。

キング牧師の有名な演説「I Have a Dream」が大きく世論に突き刺さりました。
このワシントン大行進をもって、人種差別を禁じる公民権法が制定されます。

アメリカは長い人種差別との戦いに一区切りをつけて新たな戦いへと向かうことになります。

その後

現在のアメリカは人種問題に非常にセンシティブです。

一部では未だに人種差別の名残もあります。
白人警官による黒人の扱いが度々、問題視されます。

完全にクリーンになることは難しいですが1歩ずつ協調への道を歩んでいます。

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