自殺は許容されるべき概念

主張、意見

「日本の自殺事情」を取り上げています。
少し重ためのテーマです。

本記事では自殺に対する概念をまとめました。
自殺に対する概念は許容されるべきという目線から私見を展開します。

宗教は自殺をどう捉えるか?

自殺=絶対ダメ?

「自殺」=「絶対ダメ」というのが大方の見解でしょう。
世界を席巻する宗教でも自殺を禁じる教義が多いです。

果たして、自殺は絶対ダメな行為なのでしょうか?
自殺に対する概念には一考の余地があります。

「自殺をしたい」当人は、辛い現実が目の前にあります。
その現実を負託せずに「自殺をしてはいけない」という一般論は通じません。

無論、自殺幇助をしている訳ではありません。
「自殺はいけない」と封をすることが根本的な解決策ではないという話です。

キリスト教における自殺

キリスト教において、生死を決することができるのは神だけです。
自殺することは、自分を殺すということで、殺人にあたります。

ただし、欧米での「安楽死への寛容的な思想」と「神への冒涜ととれる自殺」は矛盾しています。
この矛盾点は、聖書による自殺への記述がないことが起因します。

「自殺をしても、神は救ってくださる」と自己都合で、解釈を付け加えます。
原則、キリスト教では自殺は禁止されています。

イスラム教における自殺

イスラム圏でも、自殺は総じて禁止されています。

イスラム教においても、生は神から与えられたものです。
その生を自分で放棄することは決して許されていません。

イスラム圏はキリスト圏と異なり、自殺率が低いです。

その要因としては、イスラム教における信仰の厳格さがあげられます。

ムスリムは、「自殺をした者は地獄に落ちる」と信じています。
さらには自殺者への偏見も自殺率の低下を生み出しているとされます。

一方で、ジハードと称して、自らの命を差し出す行為も見られます。
ジハードは、彼らにとって、聖戦で命を捧げたという解釈です。

仏教における自殺

キリスト教、イスラム教と異なり、仏教では自殺を禁じてはいません。
無論、自殺を推奨しているわけでもありません。

仏教では、当人の自由意志において、自分の命を決定します。

一部では、不殺生戒などの教えがあり、自殺を否定する側面も持ちます。
しかし、前述の宗教に比べると、自殺への解釈には幅があります。

自殺に対する解釈の幅
仏教>キリスト教>イスラム教(厳格)

自殺は許容されるべき概念である

自殺は許容されるべき

自殺は許容されるべき概念だと考えます。
自殺を選び取るのも当人の自由(自由意志)です

(無論、自殺幇助ではなく、概念の話)

命の価値を考えると全ての人間(生命)は無価値です。
そこには不変の平等性があります。

アメリカの大統領も、シリアの難民も平等。
名だたる起業家も道端のホームレスも全ての命は根本的に無価値です。

命の価値は無価値

命の価値はないのだから、自ずから命を絶つことも自由です。
価値がない命が存続するも断絶するも意味がありません。

命を絶つことを禁ずることは、人間の自由意志を侵害します。
自由意志を侵害するということは、思想の暴力です。

人間は、この世で唯一、自らの思想を掴みとることのできる生物です。
その最大の決定権である生死の決定を、禁じてはいけません。

「自殺者へのはなむけ」がされるべき

自殺をした人間に対して、自殺が罪なことであるすると、その人は救われません。
自殺=罪とする概念は、あまりにも自殺をした人間に冷たいのではないでしょうか。

自殺者に対しては、「その人が死という希望を選び取った」と解釈をします。
その方が、残された人にとっても幾分か救われるのではないでしょうか?

悲しい事実に、より悲しい解釈を与える必要はないと考えます。

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